大鏡 - 後日物語

 皇后宮大夫殿書きつがはれたる夢なり。
 この年頃聞けば、百日・千日の講行はぬ家々なし。老いたるも若きも、後の世の勤めをのみ思しまうすめるに、一日の講も行はず、ただつらつらといたづらに起き臥してのみ侍る罪ふかさに、ある所の千日の講、卯の時になむ行ふと聞きて参りたりけるに、人々、所もなく、車もかちの人もありけむ。やや待てど講師見えず。人々のいふを聞けば、「今日の講は、夕つ方ぞあらむ」などいふに、帰らむも罪得がましく思ふに、百歳ばかりにやあらむと見ゆる翁の居たるかたはらに、法師の同じほどに見ゆる、人の中を分けてきて、この翁に、
「いとかしこく見奉りつけて、あながちに参りつるなり。そもそも御前は、ひととせ世継の菩提講にて物語し給ひし、あながちに居寄りて、あどうち給ひしと見奉るは、老法師の僻目か」
といへば、男、
「さもや侍りけむ」といふ。
「これはいで、興ありて。その世継には、またや会ひ給へりし」といへば、
「後三条院生れさせ給ひてなむ、会ひて侍りし」といへば、「さてさていかなることか申されけむ。そのかみごろも、耳もおよばず承り思う給へし。その後さまざま興あることも侍るを、聞かせ給ひけむ。誠に今の世
のこと、とりそへて宣はせよ。あはれ、幾歳にななり給ひ侍りぬらむ」といへば、
「二の舞の翁にてこそは侍らめ。さはあれど、聞かむと思し召さば、すこぶる申し侍らむ。まづ、その年、万寿二年乙の丑の年、今年己の亥の年とや申す。八十三年にこそ、なりにて侍りけれ。いでや、なにばかり見聞きたることの情も侍らず。かの世継の申されしことも、耳にとどまるやうにも侍らざりき」といへば、法師、
 「いでいで、さりとも八十三年の功徳の林とは、今日の講を申すべきなめり。今も昔もしかぞ侍りし。二の舞の翁、
物まねびの翁、僧らが申さむことを、正教になずらへて、誰も聞し召せ」といへば、翁、
 「聞し召し所も侍るまじけれど、かくせちにすすめ給へば、今はのきざみに、痴のものに笑はれ奉るべきにこそ。見聞き侍りしは、後一条院、長元九年四月十七日失せさせ給へる。天下をしろしめすこと、二十一年。そのほど、いらなく悲しきこと多く侍りき。中宮はやがて思し召し嘆きて、同じ年の九月六日失せさせ給ひにし。上東門院思し召し嘆きしかど、これにも後れ奉らせ給ひて、一品の宮・前斎院をこそは、かしづき奉らせ給ひしか。院の御葬送の夜ぞかし、常陸国の百姓とかや、
  かけまくもかしこぎ君が雲のうへに煙かからむ物とやは見し
 五月ばかり、郭公を聞し召して、女院、
   一言を君に告げなむほととぎすこのさみだれは闇にまどふと
この御思ひに、源中納言顕基の君出家し給ひて後、女院に申し給へりし、
   身を捨てて宿を出でにし身なれどもなほ恋しきは昔なりけり
御返し、
   時の間も恋しきことのなぐさまば世はふたたびもそむかれなまし
その時は、斯様なること多く聞え侍りしかど、数々申すべきならず。
後朱雀院位につかせ給うて、さはいへど、はなやかにめでたく世にもてなされて、しばしこそあれ、一の宮の方にゐさせ給ふ一品の宮、后にたたせ給ふ。後三条院生れさせ給ひにしかば、さればこそ、昔の夢はむなしかりけりや。「なからむ末伝へさせ給ふべき君に御座します」とぞ、世継申されし。今后、弘徽殿に御座しまし、春宮、梅壷に御座しまして、先帝の一品の宮、春宮に参らせ給ひて、藤壷に御座しまして、女院入らせ給ひて、ひとつにおほし奉らせ給へる宮たち、いづれともおぼつかなからず見奉らせ給ふめでたさに、故院の御座しまさぬ嘆き、尽きせず思し召したりけり。
関白殿に養ひ奉らせ給ひし、故式部卿の宮の姫君、内に参らせ給ひて、弘徽殿に御座しますべしとて、かねて后の宮出でさせ給ひしこそ、いかに安からず思し召すらむと、世の人、悩みまうししか。明日まかでさせ給はむとて、上にのぼらせ給ひて、帝いかが申させ給ひけむ、宮、
  今はただ雲居の月をながめつつめぐりあふべきほども知られず
この宮に女宮二所御座します。斎宮・斎院にゐさせ給うて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思し召すに、五月五日に、内より、
  もろともにかけし菖蒲のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな
御返し、
  かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思ひし
殿の御もてなし、かたはらいたくわづらはしくて、ひさしく入らせ給はず。されど、この宮御座しますこそは、たのもしきことなれど、今の宮に男皇子うみ奉り給ひてば、うたがひなき儲の君と思し召したる、ことわりなり。よき女房多く、出羽・少将・小弁・小侍従などいひて、手書き・歌よみなど、はなやかにていみじうて、候はせ給ふ」
  ― 終 ―