大鏡 - 内大臣道隆

「この大臣は、これ、東三条の大臣の御一男なり。御母は、女院の御同じ腹なり。関白になり栄えさせ給ひて六年ばかりや御座しけむ、大疫癘の年こそ失せ給ひけれ。されど、その御病にてはあらで、御酒のみだれさせ給ひにしなり。男は、上戸、ひとつの興のことにすれど、過ぎぬるはいと不便なる折侍りや。祭のかへさ御覧ずとて、小一条の大将・閑院の大将と一つ御車にて、紫野に出でさせ給ひぬ。烏のつい居たるかたを瓶につくらせ給ひて、興ある物に思して、ともすれば御酒入れて召す。今日もそれにて参らする、もてはやさせ給ふほどに、やうやう過ぎさせ給ひて後は、御車の後・前の簾皆あげて、三所ながら御髻はなちて御座しましけるは、いとこそ見ぐるしかりけれ。おほかたこの大将殿たちの参り給へる、世の常にて出で給ふをば、いと本意なく口惜しきことに思し召したりけり。物もおぼえず、御装束もひきみだりて、車さし寄せつつ、人にかかれて乗り給ふをぞ、いと興あることにせさせ給ひける。
 ただしこの殿、御酔のほどよりはとくさむることをぞせさせ給ひし。御賀茂詣の日は、社頭にて三度の御かはらけ定まりて参らするわざなるを、その御時には、禰宜・神主も心得て、大かはらけをぞ参らせしに、三度はさらなることにて、七八度など召して、上の社に参りたまふ道にては、やがてのけざまに、しりの方を御枕にて、不覚に大殿篭りぬ。一の大納言にては、この御堂ぞ御座しまししかば、御覧ずるに、夜に入りぬれば、御前の松の光にとほりて見ゆるに、御透影の御座しまさねば、あやしと思し召しけるに、参りつかせ給ひて、御車かきおろしたれど、え知らせ給はず。いかにと思へど、御前どももえおどろかしまうさで、ただ候ひなめるに、入道殿おりさせ給へるに、さてあるべきことならねば、轅の戸ながら、高やかに、「やや」と御扇を鳴らしなどせさせ給へど、さらにおどろき給はねば、近く寄りて、表の御袴の裾を荒らかにひかせ給ふ折ぞ、おどろかせ給ひて、さる御用意はならはせ給へれば、御櫛・笄具し給へりける取り出でて、つくろひなどして、おりさせ給ひけるに、いささかさりげなくて、清らかにてぞ御座しましし。されば、さばかり酔ひなむ人は、その夜は起きあがるべきかは。それに、この殿の御上戸は、よく御座しましける。その御心のなほ終りまでも忘れさせ給はざりけるにや、御病づきて失せ給ひけるとき、西にかき向け奉りて、「念仏申させ給へ」と、人々のすすめ奉りければ、「済時・朝光なむどもや極楽にはあらむずらむ」と仰せられけるこそ、あはれなれ。つねに御心に思しならひたることなればにや。あの、地獄の鼎のはたに頭うちあてて、三宝の御名思ひ出でけむ人の様なることなりや。
 御かたちぞいと清らに御座しましし。帥殿に天下執行の宣旨下し奉りに、この民部卿殿の、頭弁にて参り給へりけるに、御病いたくせめて、御装束もえ奉らざりければ、御直衣にて御簾の外にゐざり出でさせ給ふに、長押をおりわづらはせ給ひて、女装束御手にとりて、かたのやうにかづけさせ給ひしなむ、いとあはれなりし。こと人のいとさばかりなりたらむは、ことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてに御座せしかば、「病づきてしもこそかたちはいるべかりけれ、となむ見えし」とこそ、民部卿殿はつねに宣ふなれ。
 その関白殿は腹々に男子・女子あまた御座しましき。今の北の方は、大和守高階成忠のぬしの御女なり。後には高二位とこそいひ侍りしか。さて積善寺の供養の日は、この入道殿の上に候はれしは、いとめだうなりしわざかな。
 その腹に男君三所・女君四所御座しましき。大姫君は、一条院の十一にて御元服せしめ給ひしに、十五にてや参らせ給ひけむ。やがてその年六月一日、后にゐさせ給ふ。
中宮と申しき。
東三条殿の御悩のさかりも過ぐさせ給はで、奉らせ給ひしをぞ、世人、いかにぞや申し侍りし。
 さて関白殿など失せさせ給ひて後に男御子一人・女御子二人うみ奉らせ給へりき。女一の宮は入道の一品の宮とて、三条に御座します。女二の宮は、九つにて失せ給ひにき。男親王、式部卿の宮篤康の親王とこそ申ししか。たびたびの御思ひたがひて、世の中を思し嘆きて失せ給ひにき、御年二十にて。あさましうて病ませ給ひにしかは。冷泉院の宮たちなどのやうに、軽々に御座しまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし。御才いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞ御座しましし。
 さてまた、この宮の御母后の御さしつぎの中の君は、三条院の東宮と申しし折のしげいさとて、はなやがせ給ひしも、父殿失せ給ひにし後、御年二十二三ばかりにて失せさせ給ひにき。
 三の御方は、冷泉院の四の皇子、帥の宮と申ししをこそは、父殿婿どり奉らせ給へりしも、後には、やがて御中絶えにしかば、末の世は、一条の渡りにいとあやしくて御座するとぞ聞え給ひし。誠にや、御心ばへなどの、いと落ち居ず御座しければ、かつは、宮もうとみきこえさせ給へりけるとかや。客人などの参りたる折は、御簾をいと高やかに押しやりて、御懐をひろげて立ち給へりければ、宮は御おもてうち赤めてなむ御座しましける。候ふ人も、おもての色たがふ心地して、うつぶしてなむ、立たむもはしたに、術なかりける。宮、後には、「見返りたりしままに、動きもせられず、物こそ覚えざりしか」とこそ仰せられけれ。
 また、学生ども召し集めて、作文し遊ばせ給ひけるに、金を二三十両ばかり、屏風の上より投げ出して、人々うち給ひければ、ふさはしからず憎しとは思はれけれど、その座にては饗応しまうしてとり争ひけり。「金賜はりたるはよけれども、さも見ぐるしかりし物かな」とこそ今に申さるなれ。人々文作りて講じなどするに、よしあしいと高やかに定め給ふ折もありけり。二位の新発の御流にて、この御族は、女も皆、才の御座したるなり。
 母上は高内侍ぞかし。されど、殿上えせられざりしかば、行幸・節会などには、南殿にぞ参られし。それはまことしき文者にて、御前の作文には、文奉られしはとよ。少々の男にはまさりてこそ聞え侍りしか。さやうの折、召しありけるにも、台盤所の方よりは参り給はで、弘徽殿の上の御局の方より通りて、二間になむ候ひ給ひけるとこそ承りしか。古体に侍りや。「女のあまりに才かしこきは、物あしき」と、人の申すなるに、この内侍、後にはいといみじう堕落せられにしも、その故とこそはおぼえ侍りしか。さて、その宮の上の御さしつぎの四の君は、御匣殿と申しし。御かたちいとうつくしうて、式部卿の宮の御母代にて御座しまししも、はかなく失せ給ひにき。されば、一つ腹の女君たちかくなり。対の御方と聞えさせし人の御腹にも、女君御座しけるは、今の皇太后宮にこそは候ひ給ふなれ。またも聞え給ふかし。
 男君たちは、太郎君、故伊予守守仁のぬしの女の腹ぞかし、大千代君よな。それは祖父大臣の御子にし奉り給ひて、道頼の六郎君とこそは申ししか。大納言までなり給へりき。父関白殿失せ給ひし年の六月十一日に、うちつづき失せ給ひにき。御年二十五とぞ聞えさせ給ひし。御かたちいと清げに、あまりあたらしきさまして、物より抜け出でたるやうにぞ御座せし。御心ばへこそ、こと御はらからにも似給はずいとよく、また、ざれをかしくも御座せしか。この殿は、こと腹に御座す。皇后宮と一つ腹の男君、法師にて、十あまりのほどに僧都になし奉り給へりし。それも三十六にて失せ給ひにき。いま一所は、小千代君とて、かの外腹の大千代君にはこよなくひき越し、二十一に御座せしとき、内大臣になし奉り給ひて、わが失せ給ひし年、長徳元年のことなり、御病重くなるきはに、内に参り給ひて、「おのれかくまかりなりにて候ふほど、この内大臣伊周の大臣に、百官ならびに天下執行の宣旨賜ぶべき」よし、申し下さしめ給ひて、われは出家せさせ給ひてしかば、この内大臣殿を関白殿とて、世の人集り参りしほどに、粟田殿にわたりにしかば、手に据ゑたる鷹をそらいたらむやうにて嘆かせ給ふ。一家にいみじきことに思しみだりしほどに、その移りつる方も夢のごとくにて失せ給ひにしかば、今の入道殿、その年の五月十一日より世をしろしめししかば、かの殿いとど無徳に御座しまししほどに、またの年、花山院の御こと出できて、御官位とられて、ただ太宰権帥になりて、長徳二年四月二十四日にこそは下り給ひにしか、御年二十三。いかばかりあはれにかなしかりしことぞ。されど、げにかならず斯様のこと、わがおこたりにて流され給ふにしもあらず。よろづのこと身にあまりぬる人の、唐にもこの国にもあるわざにぞ侍るなる。昔は北野の御ことぞかし」などいひて、鼻うちかむほどもあはれに見ゆ。
「この殿も、御才日本にはあまらせ給へりしかば、かかることも御座しますにこそ侍りしか。
 さて、式部卿の宮の生れさせ給へる御よろこびにこそ召し返させ給ひつれ。さて、大臣になずなふる宣旨かぶらせ給ひて歩き給ひし御有様も、いと落ち居ても覚え侍らざりき。いと見ぐるしきことのみ、いかに聞え侍りし物とて。内に参らせ給ひけるに、北の陣より入らせ給ひて、西ざまに御座しますに、入道殿も候はせ給ふほどなれば、梅壷の東の塀の戸のはさまに、下人どもいと多くゐたるを、この帥殿の御供の人々いみじう払へば、いくべき方のなくて、梅壷の塀のうちにはらはらと入りたるを、これはいかにと、殿御覧ず。あやしと人々見れど、さすがにえともかくもせぬに、なにがしといひし御隋身の、そら知らずして、荒らかにいたく払ひ出せば、また戸ざまに、、いとらうがはしく出づるを、帥殿の御供の人々、このたびはえ払ひあへねば、ふとり給へる人にて、すがやかにもえ歩み退き給はで、登花殿の細殿の小蔀に押し立てられ給ひて、「やや」と仰せられけれど、狭きところに雑人いと多く払はれて、おしかけられまつりぬれば、とみにえ退かで、いとこそ不便に侍りけれ。それはげに御罪にあらねど、ただはなやかなる御歩き・振舞をせさせ給はずは、さやうに軽々しきこと御座しますべきことかはとぞかし。
また、入道殿、御嶽に参らせ給へりし道にて帥殿の方より便なきことあるべしと聞えて、常よりも世をおそれさせ給ひて、たひらかに帰らせ給へるに、かの殿も、「かかること聞えたりけり」と人の申せば、いとかたはらいたく思されながら、さりとてあるべきならねば、参り給へり。道のほどの物語などせさせ給ふに、帥殿いたく臆し給へる御けしきのしるきを、をかしくもまたさすがにいとほしくも思されて、「ひさしく双六つかまつらで、いとさうざうしきに、今日あそばせ」とて、双六のばんを召して、おしのごはせ給ふに、御けしきこよなうなほりて見え給へば、殿を始め奉りて、参り給へる人々、あはれになむ見奉りける。さばかりのことを聞かせ給はむには、少しすさまじくももてなさせ給ふべけれど、入道殿は、あくまで情御座します御本性にて、かならず人のさ思ふらむ事をば、おしかへし、なつかしうもてなさせ給ふなり。この御博奕は、うちたたせ給ひぬれば、二所ながら裸に腰からませ給ひて、夜半・暁まであそばず。「心幼く御座する人にて、便なきこともこそ出でくれ」と、人はうけまうさざりけり。いみじき御賭物どもこそ侍りけれ。帥殿はふるき物どもえもいはぬ、入道殿はあたらしきが興ある、をかしきさまにしなしつつぞ、かたみにとりかはさせ給ひぬれど、斯様のことさへ、帥殿はつねに負け奉らせ給ひてぞ、まかでさせ給ひける。
 かかれど、ただいまは、一の宮の御座しますをたのもしき物に思し、世の人もさはいへど、したには追従し、怖ぢまうしたりしほどに、今の帝・春宮さしつづき生れさせ給ひにしかば、世を思しくづほれて、月頃御病もつかせ給ひて、寛弘七年正月二十九日失せさせ給ひにしぞかし。御年三十七とぞ承りし。かぎりの御病とても、いたう苦しがり給ふこともなかりけり。御しはぶき病にやなど思しけるほどに、重り給ひにければ、修法せむとて、僧召せど、参るもなきに、いかがはせむとて、道雅の君を御使にて、入道殿に申し給へりける。夜いたうふけて、人もしづまりにければ、やがて御格子のもとによりて、うちしはぶき給ふ。「誰そ」と問はせ給へば、御名のり申して、「しかじかのことにて、修法始めむとつかまつれば、阿闍梨にまうでくる人も候はぬを、賜はらむ」と申し給へば、「いと不便なる御ことかな。えこそ承らざりけれ。いかやうなる御心地ぞ。いとたいだいしき御ことにもあるかな」と、いみじうおどろかせ給ひて、「誰を召したるに参らぬぞ」など、くはしく問はせ給ふ。なにがし阿闍梨をこそは奉らせ給ひしか。されど、世の末は人の心も弱くなりにけるにや、「あしく御座します」など申ししかど、元方の大納言のやうにやは聞えさせ給ふな。また、入道殿下のなほすぐれさせ給へる威のいみじきに侍るめり。老の波にいひ過しもぞし侍る」と、けしきだちて、このほどはうちささめく。
「源大納言重光の卿の御女の腹に、女君二人・男君一人御座せしが、この君たち皆おとなび給ひて女君たちは后がねとかしづき奉り給ひしほどに、さまざま思ししことどもたがひて、かく御病さへ重り給ひにければ、この姫君たちをすゑなめて、泣く泣く宣ひける「年頃、仏・神にいみじうつかうまつりつれば、何事もさりともとこそ頼み侍りつれど、かくいふかひなき死をさへせむことのかなしさ。かく知らましかば、君たちをこそ、われより先に失せ給ひねと、祈り思ふべかりけれ。おのれ死なば、いかなる振舞・有様をし給はむずらむと思ふが悲しく、人笑はれなるべきこと」と、いひつづけて泣かせ給ふ。「あやしき有様をもし給はば、なき世なりとも、かならず恨みきこえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言し給ひけるかし。その君たち、大姫君は、高松殿の春宮大夫殿の北の方にて、多くの君達うみつづけて御座すめり。それは、あしかるべきことならず。いま一所は、大宮に参りて、帥殿の御方とて、いとやむごとなくて候ひ給ふめるこそは、思しかけぬ御有様なめれ。あはれなりかし。
男君は、松の君とて、生れ給へりしより、祖父大臣いみじき物に思して、迎へ奉り給ふたびごとに、贈物をせさせ給ふ。御乳母をも饗応し給ひし君ぞかし。この頃三位して御座すめるは。この君を、父大臣、「あなかしこ、わがなからむ世に、あるまじきわざせず、身捨てがたしとて、物覚えぬ名簿うちして、わがおもてふせて、『いでや、さありしかど、かかるぞかし』と、人にいひのたてせさすな。世の中にありわびなむときは、出家すばかりなり」と、泣く泣くいひおかせ給ひけるに、この君、当代の春宮にて御座しましし折の亮になり給ひて、いとめやすきことと見奉りしほどに、春宮亮道雅の君とて、いと覚え御座しきかし。それに、いかがしけむ、位につかせ給ひしきざみに、蔵人頭にもえなり給はずして、坊官の労にて三位ばかりして、中将をだにえかけたまはずなりにしは、いとかなしかりしことぞかし。あさましう思ひかけぬことどもかな。
 この君、故帥中納言惟仲の女に住み給ひて、男一人・女一人うませ給へりしは、法師にて、明尊僧都の御房にこそは御座すめれ。女君は、いかが思ひ給ひけむ、みそかに逃げて、今の皇太后宮にこそ参りて、大和の宣旨とて候ひ給ふなれ。年頃の妻子とやは頼むべかりける。なかなかそれしもこそあなづりて、をこがましくもてなしけれ。あはれ、翁らがわらはべのさやうに侍らましかば、しらががみをも剃り、鼻をもかきおとしはべなまし。よき人と申すものは、いみじかし名の惜しければ、えともかくもし給はぬにこそあめれ。さるは、かの君、さやうにしれ給へる人かは、たましひはわき給ふ君をは。
 帥殿は、この内の生れさせ給へりし七夜に、和歌の序代書かせ給へりしぞ、なかなか心なきことやな。本体は参らせ給ふまじきを、それに、さし出で給ふより、多くの人の目をつけ奉りて、「いかに思すらむ」「なにせむに参り給へるぞ」とのみ、まもられ給ふ。いとはしたなきことにはあらずや。それに、例の入道殿は誠にすさまじからずもてなしきこえさせ給へるかひありて、憎さは、めでたくこそ書かせ給へりけれ。当座の御おもては優にて、それにぞ人々ゆるしまうし給ひける。
この帥殿の御一つ腹の、十七にて中納言になりなどして、世の中のさがなものといはれ給ひし殿の、御童名は阿古君ぞかし。この兄殿の御ののしりにかかりて、出雲権守になりて、但馬にこそは御座せしか。さて、帥殿の帰り給ひし折、この殿も上り給ひて、もとの中納言になりや、また兵部卿などこそは聞えさせしか。それも、いみじうたましひ御座すとぞ、世の人に思はれ給へりし。あまたの人々の下臈になりて、かたがたすさまじう思されながら歩かせ給ふに、御賀茂詣につかうまつり給へるに、むげに下りて御座するがいとほしくて、殿の御車に乗せ奉らせ給ひて、御物語こまやかなるついでに、「ひととせのことは、おのれが申し行ふとぞ、世の中にいひ侍りける。そこにもしかぞ思しけむ。されど、さもなかりしことなり。宣旨ならぬこと、一言にてもくはへて侍らましかば、この御社にかくて参りなましや。天道も見給ふらむ。いとおそろしきこと」とも、まめやかに宣はせしなむ、「なかなかにおもておかむかたなく、術なくおぼえし」とこそ、後に宣ひけれ。それも、この殿に御座すれば、さやうにも仰せらるるぞ。帥殿にはさまでもや聞えさせ給ひける。
 この中納言は、斯様にえさりがたきことの折々ばかり歩き給ひて、いといにしへのやうに、まじろひ給ふことはなかりけるに、入道殿の土御門殿にて御遊びあるに、「斯様のことに、権中納言のなきこそ、なほさうざうしけれ」と宣はせて、わざと御消息聞えさせ給ふほど、杯あまたたびになりて、人々みだれ給ひて、紐おしやりて候はるるに、この中納言参り給へれば、うるはしくなりて、居直りなどせられければ、殿、「とく御紐解かせ給へ。ことやぶれ侍りぬべし」と仰せられければ、かしこまりて逗留し給ふを、公信の卿、うしろより、「解き奉らむ」とて寄り給ふに、中納言御けしきあしくなりて、「隆家は不運なる事こそあれ、そこたちに斯様にせらるべき身にもあらず」と、荒らかに宣ふに、人々御けしき変り給へるなかにも、今の民部卿殿は、うはぐみて、人々の御顔をとかく見給ひつつ、こと出できなむず、いみじきわざかなと思したり。入道殿、うち笑はせ給ひて、「今日は、斯様のたはぶれごと侍らでありなむ。道長解き奉らむ」とて寄らせ給ひて、はらはらと解き奉らせ給ふに、「これらこそあるべきことよ」とて、御けしきなほり給ひて、さしおかれつる杯とり給ひてあまたたび召し、常よりも乱れあそばせ給ひけるさまなど、あらまほしく御座しけり。殿もいみじうぞもてはやしきこえさせ給ひける。
さて、式部卿の宮の御ことを、さりともさりともと待ち給ふに、一条院の御悩重らせ給ふきはに、御前に参り給ひて、御気色賜はり給ひければ、「あのことこそ、つひにえせずなりぬれ」と仰せられけるに、「『あはれの人非人や』とこそ申さまほしくこそありしか」とこそ宣ひけれ。さて、まかで給うて、わが御家の日隠の間に尻うちかけて、手をはたはたと打ちゐ給へりける。世の人は、「宮の御ことありて、この殿、御後見もし給はば、天下の政はしたたまりなむ」とぞ、思ひまうしためりしかども、この入道殿の御栄えのわけらるまじかりけるにこそは。
 三条院の大嘗会の御禊に、きらめかせ給へりしさまなどこそ、常よりもことなりしか。人の、このきはは、さりともくづほれ給ひなむ、と思ひたりしところをたがへむと、思したりしなめり。さやうなるところの御座しまししなり。節会・行幸には、掻練襲奉らぬことなるを、単衣を青くてつけさせ給へれば、紅葉襲にてぞ見えける。表の御袴、竜胆の二重織物にて、いとめでたく清らにこそ、きらめかせ給へりしか。
 御目のそこなはれ給ひにしこそ、いといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせ給ひしかど、えやませ給はで、御まじらひ絶え給へる頃、大弐の闕出できて、人々望みののしりしに、唐人の目つくろふがあなるに、見せむと思して、「こころみにならばや」と申し給ひければ、三条院の御時にて、またいとほしくや思し召しけむ、二言となくならせ給ひてしぞかし。その御北の方には、伊予守兼資のぬしの女なり。その御腹の女君二所御座せしは、三条院の御子の式部卿の宮の北の方、いま一所は、傅の殿の御子に宰相中将兼経の君、この二所の御婿をとり奉り給ひて、いみじういたはりきこえ給ふめり。
 政よくし給ふとて、筑紫人さながら従ひまうしたりければ、例の大弐、十人ばかりがほどにて、上り給へりとこそ申ししか。
かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。公家、大臣・大納言にもなさせ給ひぬべかりしかど、御まじらひ絶えにたれば、ただには御座するにこそあめれ。この中に、むねと射返したるものどもしるして、公家に奏せられたりしかば、皆賞せさせ給ひき。種材は壱岐守になされ、その子は大宰監にこそなさせ給へりしか。
 この種材が族は、純友討ちたりしものの筋なり。この純友は、将門同心に語らひて、おそろしきこと企てたるものなり。将門は、「帝を討ちとり奉らむ」といひ、純友は、「関白にならむ」と、同じく心をあはせて、この世界に我と政をし、君となりてすぎむ、といふことを契り会ひて、一人は東国にいくさをととのへ、一人は西国の海に、いくつともなく、大筏を数知らず集めて、筏の上に土をふせて、植木をおほし、よもやまの田をつくり、住みつきて、おほかたおぼろけのいくさに、動ずべうもなくなりゆくを、かしこうかまへて、討ち奉りたるは、いみじきことなりな。それはげに人のかしこきのみにはあらじ、王威の御座しまさむかぎりは、いかでかさることあるべきと思へど。
 さて壱岐・対馬国の人を、いと多く刀伊国にとりていき
たりければ、新羅の帝いくさをおこし給ひて、皆討ち返し給ひてけり。さて使をつけて、たしかにこの島に送り給へりければ、かの国の使には、大弐、金三百両とらせてかへさせ給ひける。このほどのことも、かくいみじうしたため給へるに、入道殿、なほこの帥殿を捨てぬものに思ひきこえさせ給へるなり。さればにや、世にもいとふり捨てがたき覚えにてこそ御座すめれ。御門には、いつかは馬・車の三つ四つ絶ゆる時ある。また、道もさりあへず立つ折もあるぞかし。この殿の御子の男君、ただいまの蔵人少将良頼の君、また、右中弁経輔の君、また式部丞などにて御座すめり。
誠に、世に会ひてはなやぎ給へりし折、この帥殿は花山院とあらがひごとまうさせ給へりしはとよ。いと不思議なりしことぞかし。「わぬしなりとも、わが門はえわたらじ」と仰せられければ、「隆家、などてかわたり侍らざらむ」と申し給ひて、その日と定められぬ。輪つよき御車に、逸物の御車牛かけて、御烏帽子・直衣いとあざやかにさうぞかせ給ひて、葡萄染の織物の御指貫少しゐ出でさせ給ひて、祭のかへさに紫野走らせ給ふ君達のやうに、踏板にいと長やかに踏みしだかせ給ひて、くくりは地にひかれて、簾いと高やかに巻き上げて、雑色五六十人ばかり、声のあるかぎり、ひまなく御先参らせ給ふ。院には、さらなり、えもいはぬ勇幹幹了の法師ばら・大中童子など、あはせて七八十人ばかり、大きなる石・五六尺ばかりなる杖ども持たせさせ給ひて、北・南の御門・築地づらに、小一条の前、洞院の裏うへ、ひまなく立て並めて、御門のうちにも、侍・僧の若やかに力強きかぎり、さるまうけして候ふ。さることをのみ思ひたる上下の、今日にあへるけしきどもは、げにいかがはありけむ。いづ方にも、石・杖ばかりにて、まことしき弓矢まではまうけさせ給はず。中納言殿の、御車、一時ばかり立て給ひて、勘解由小路よりは北に、御門近うまでは、やり寄せ給へりしかど、なほえわたり給はで、帰らせ給ふに、院方にそこらつどひたるものども、ひとつ心に、目をかためまもりまもりて、やりかへし給ふほど、「は」と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびたたしかりしか。さる見物やは侍りしとよ。王威はいみじき物なりけり。えわたらせ給はざりつるよ。「無益のことをもいひてけるかな。いみじき辱号とりつる」とてこそ、笑ひ給ひけれ。院は勝ちえさせ給へりけるを、いみじと思したるさまも、ことしもあれ、まことしきことの様なり。
 この帥殿の御はらからといふ君達、数あまた御座すべし。頼親の内蔵頭・周頼の木工頭などいひし人、かたはしよりなくなり給ひて、今は、ただ兵部大輔周家の君ばかり、ほのめき給ふなり。小一条院の御宮たちの御乳母の夫にて、院の格勤して候ひ給ふ、いとかしこし。また、井手の少将とありし君は、出家とか。故関白殿の御心おきていとうるはしく、あてに御座ししかど、御末あやしく、御命も短く御座しますめり。今は、入道一品の宮と、この帥中納言殿とのみこそは、残らせ給へめれ。