この大臣、これ、基経のおとどの四郎君。御母、本院の大臣・枇杷の大臣に同じ。このおとど、延長八年九月二十一日摂政、天慶四年十一月関白の宣旨かぶり給ふ。公卿にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給ふこと二十年。後の御諡号貞信公と名づけ奉る。子一条の太政大臣と申す。朱雀院并びに村上の御舅に御座します。この御子五人。その折は、御位太政大臣にて、御太郎、左大臣にて実頼のおとど、これ、小野宮と申しき。二郎、右大臣師輔のおとど、これを九条殿と申しき。四郎、師氏の大納言と聞こえき。五郎、また左大臣師尹のおとど、子一条殿と申しきかし。これ、四人君達、左右の大臣、納言などにて、さしつづき御座しましし、いみじかりし御栄花ぞかし。女君一所は、先坊の御息所にて御座しましき。
つねにこの三人の大臣たちの参らせ給ふ料に、小一条の南、勘解由小路には、石畳をぞせられたりしが、まだ侍るぞかし。宗像の明神の御座しませば、洞院・小代の辻子よりおりさせ給ひしに、雨などの降る日の料とぞ承りし。凡その一町は、人まかり歩かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩き侍れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給ふれ。この翁どもは、今もおぼろけにては通り侍らず。今日も参り侍るが、腰のいたく侍りつれば、術なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥をふみこみて候ひつれば、きたなき物も、かくなりて侍るなり』とて、引き出でて見す。
『「先祖の御物は何もほしけれど、小一条のみなむ要に侍らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道殿は仰せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神、うつつに、物など申し給ひけり。「我よりは御位高くて居させ給へるなむ、くるしき」と申し給ひければ、いと不便なる御こととて、神の御位申しあげさせ給へるなり。
この殿、何の御時とは覚え侍らず、思ふに、延喜・朱雀院の御ほどにこそは侍りけめ、宣旨承らせ給ひて、おこなひに陣座ざまに御座します道に、南殿の御帳のうしろのほど通らせ給ふに、物のけはひして、御太刀の石突をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪ながくて刀の刃の様なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆したるさま見えじと念ぜさせ給ひて、「おほやけの勅宣承りて、定に参る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給へりければ、まどひてうち放ちてこそ、丑寅の隅ざまにまかりにけれ。思ふに夜のことなりけむかし。こと殿ばらの御ことよりも、この殿の御こと申すは、かたじけなくもあはれにも侍るかな』とて、音うちかはりて、鼻度々うちかむめり。
『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給へるとこそ、人申し伝へたれ。天暦三年八月十一日にぞ失せさせ給ひける。正一位に贈せられ給ふ。御年七十一。