次の帝、陽成天皇と申しき。これ、清和天皇の第一の皇子なり。御母、皇太后宮高子と申しき。権中納言贈正一位太政大臣長良の御女なり。この帝、貞観十年戊子十二月十六日、染殿院にて生まれ給へり。同じき十一月二月一日己丑、御年二つにて東宮にたたせ給ひて、同じき十八年丙申十一月二十九日、位につかせ給ふ。御年九歳。元慶六年壬寅正月二日乙巳〈 坎日也 〉、御元服。御年十五。世をしらせ給ふこと八年。位おりさせ給ひて、二条院にぞ御座しましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせ給ふ。御法事の願文には、「釈迦如来の一年の兄」とは作られたるなり。智恵深く思ひよりけむほど、いと興あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世の責めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。
御母后、清和の帝よりは九年の御姉なり。二十七と申しし年、陽成院をばうみ奉り給ふなり。元慶元年正月に后にたたせ給ふ、中宮と申す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮にあがり給ふ。御年四十一。この后の宮の、宮仕ひしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座しける時、在中将しのびて率てかくし奉りたりけるを、御せうとの君達、基経の大臣・国経の大納言などの、若く御座しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代のことも」とは申し出で給ひけるぞかし。されば、世の常の御かしづきにては御覧じそめられ給はずや御座しましけむとぞ、おぼえ侍る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮に参り通ひなどし給ひけむほどのことにやとぞ、推しはかられ侍る。およばぬ身に、斯様のことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃、古今・伊勢物語など覚えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御なからひのほどとこそは承れ。末の世まで書き置き給ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色あることも、をかしきこともありける物』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
『二条の后と申すは、この御ことなり。