次の帝、清和天皇と申しけり。文徳天皇の第四の皇子なり。御母、皇太后宮明子と申しき。太政大臣良房のおとどの御女なり。この帝、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父、おほきおとどの小一条の家にて、父帝の位につかせ給へる、五日といふ日、生まれ給へりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえ侍れ。この帝は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞ御座しましける。惟喬の親王の東宮あらそひし給ひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれ給ふ年の十一月二十五日戊戌、東宮にたち給ひて、天安二年戊寅八月二十七日、御年九つにて位につかせ給ふ。貞観六年正月一日戊子、御元服、御年十五なり。世を保たせ給ふこと十八年。同じ十八年十一月二十九日、染殿院にておりさせ給ふ。元慶三年五月八日、御出家。水尾の帝と申す。この御末ぞかし、今の世に源氏の武者の族は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
御母、二十三にて、この帝をうみ奉り給へり。貞観六年正月七日、皇后宮にあがりゐ給ふ。后の位にて四十一年御座します。染殿の后と申す。その御時の護持僧は智証大師に御座す。
さばかりの仏の護持僧にて御座しけむに、この后の御物の怪のこはかりけるに、など、えやめ奉り給はざりけむ。前の世のことにて御座しましけるにやとこそおぼえ侍れ。
天安二年戊寅にぞ唐より帰り給ふ。