『文徳天皇と申しける帝は、仁明天皇の御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮藤原順子と申しき。その后、左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとどの御女なり。この帝、天長四年丁末八月に生まれ給ひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和九年壬戌二月二十六日に御元服。同八月四日、東宮にたち給ふ。御年十六。
仁明天皇もと御座する東宮をとりて、この帝を、承和九年八月四日、東宮にたて奉らせ給ひしなり。いかにやすからず思しけむとこそおぼえ侍れ。
嘉祥三年庚午三月二十一日、位につき給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふこと八年。
御母后の御年十九にてぞ、この帝をうみ奉り給ふ。嘉祥三年四月に后にたたせ給ふ。御年四十二。斎衡元年甲戌の年、皇太后宮にあがりゐ給ふ。貞観三年辛巳二月二十九日癸酉、御出家して、潅頂などせさせ給へり。同じき六年丙申正月七日、太皇太后宮にあがりゐ給ふ。これを五条の后と申す。伊勢物語に、業平中将の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみ給ひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。
同じことのやうに候ふめる。いかなることにか、二条の后に通ひまされける間のことどもとぞ、承りしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍るは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれ給へれば、同じ所に御座しけるにや。