この大臣は、長良の中納言の三郎に御座す。このおとどの御女、醍醐の御時の后、朱雀院并に御座します。このおとどの御母、贈太政大臣総継の女、贈正一位大夫人乙春なり。陽成院位につかせ給ひて、摂政の宣旨かぶり給ふ。御年四十一。寛平の御時、仁和三年十一月二十一日、関白にならせ給ふ。御年五十六にて失せ給ひて、御諡号、昭宣公と申す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせ給ふこと十余年かとぞ覚え侍る。世の人、堀河の大臣と申す。
小松の帝の御母、この大臣の御母、はらからに御座します。さて、児より小松の帝をば親しく見奉らせ給ひけるに、
ことにふれ 迹に御座します。「あはれ君かな」と見奉らせたまひけるが、
良房のおとどの大饗にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせ給ふことにて、わたらせ給へるに、雉の足はかならず大饗に盛る物にて侍るを、いかがしけむ、尊者の御前にとり落してけり。陪膳の、皇子の御前のをとりて、まどひて尊者の御前に据うるを、いかが思し召しけむ、御前の大殿油を、やをらかい消たせ給ふ。このおとどは、その折は下臈にて、座の末にて見奉らせ給ふに、「いみじうもせさせ給ふかな」と、いよいよ見めで奉らせ給ひて、陽成院おりさせ給ふべき陣の定に候はせ給ふ。融のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位につかせ給はむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」と言ひ出で給へるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」と申し出で給へれ。さもあることなれと、このおとどの定めによりて、小松の帝は位につかせ給へるなり。帝の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見申し給ふ。さるべく契りおかせ給へる御仲にやとぞおぼえ侍る。
大臣失せ給ひて、深草の山にをさめ奉る夜、勝延僧都のよみ給ふ、
うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙だに立て
また、上野峯雄と言ひし人のよみたる、
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲けなどは、古今に侍ることどもぞかしな。御家は堀河院・閑院とに住ませ給ひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料にせさせ給ふ。閑院をば、御物忌や、また、うとき人などは参らぬ所にて、さるべくむつましく思す人ばかり御供に候はせて、わたらせ給ふ折も御座しましける。堀河院は地形のいといみじきなり。大饗の折、殿ばらの御車の立ち様などよ。尊者の御車をば東に立て、牛は御橋の平葱柱につなぎ、こと上達部の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別に見ゆることは、こと所は見侍らぬ物をや」と見給ふるに、この高陽院殿にこそおされにて侍れ。方四町にて四面に大路ある京中の家は、冷泉院のみとこそ思ひ候ひつれ、世の末になるままに、まさることのみ出でまうで来るなり。この昭宣公のおとどは、陽成院の御舅にて、宇多の帝の御時に、准三宮の位にて年官・年爵をえ給ひ、朱雀院・村上の祖父にて御座します。「世覚えやむごとなし」と申せばおろかなりや。御男子四人御座しましき。太郎左大臣時平、二郎左大臣仲平、四郎太政大臣忠平』と言ふに、繁樹、気色ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁が宝の君貞信公に御座します』とて、扇うちつかふ顔もち、ことにをかし。
『三郎にあたり給ひしは、従三位して宮内卿兼平の君と申して失せ給ひにき。さるは、御母、忠良の式部卿の親王の御女にて、いとやむごとなく御座すべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申しき。