大鏡 - 左大臣時平

 この大臣は、基経のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康の親王の御女なり。醍醐の帝の御時、このおとど、左大臣の位にて年いと若くて御座します。菅原のおとど、右大臣の位にて御座します。その折、帝御年いと若く御座します。左右の大臣に世の政を行ふべきよし宣旨下さしめ給へりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にや御座しましけむ。ともに世の政をせしめ給ひし間、右大臣は才世にすぐれめでたく御座しまし、御心おきても、ことのほかにかしこく御座します。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣り給へるにより、右大臣の御おぼえことのほかに御座しましたるに、左大臣やすからず思したるほどに、さるべきにや御座しけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰四年正月二十五日、大宰権師になし奉りて、流され給ふ。
 この大臣、子どもあまた御座せしに、女君達は婿とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位ども御座せしを、それも皆方々に流され給ひてかなしきに、幼く御座しける男君・女君達慕ひ泣きて御座しければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせ給ひしぞかし。帝の御おきて、きはめてあやにくに御座しませば、この御子どもを、同じ方につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前の梅の花を御覧じて、
 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
また、亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
 流れゆく我は水宵となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ
なきことにより、かく罪せられ給ふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、
 君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや
また、播磨国に御座しましつきて、明石の駅といふ所に御宿りせしめ給ひて、駅の長のいみじく思へる気色を御覧じて、作らしめ給ふ詩、いとかなし。
 駅長驚クコトナカレ、時ノ変改
 一栄一落、是レ春秋
 かくて筑紫に御座しつきて、物をあはれに心ぼそく思さるる夕、をちかたに所々煙立つを御覧じて、
 夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
 山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼まれぬ
さりともと、世を思し召されけるなるべし。
月のあかき夜、
 海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日こそは照らし給はめとこそはあめれ』誠に、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言ひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。物のゆゑ知りたる人なども、むげに近く居寄りて外目せず、見聞く気色どもを見て、いよいよはえて物を繰り出だすやうに言ひつづくるほどぞ、誠に希有なるや。繁樹、涙をのごひつつ興じゐたり。
『筑紫に御座します所の御門かためて御座します。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、またいと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめ給へる詩ぞかし、
 都府楼ハ纔ニ瓦ノ色ヲ看ル
 観音寺ハ只鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集の、白居易の遺愛寺ノ鐘ハ欹テテ枕ヲ聴キ、香炉峯ノ雪ハ撥ゲテ簾ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめ給へりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京に御座しましし時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせ給ひける詩を、帝かしこく感じ給ひて、御衣賜はり給へりしを、筑紫に持て下らしめ給へりければ、御覧ずるに、いとどその折思し召し出でて、作らしめ給ひける、
 去年ノ今夜ハ清涼ニ侍リキ
 秋思ノ詩篇ニ独リ腸ヲ断チキ
 恩賜ノ御衣ハ今此ニ在リ
 捧ゲ持チテ毎日余香ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給へりけるを、書きて一巻とせしめ給ひて、後集と名づけられたり。また折々の歌書きおかせ給へりけるを、おのづから世に散り聞こえしなり。世継若う侍りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍りしかば、大学の衆どもの、なま不合にいましかりしを、訪ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋・破子やうの物調じて、うち具してまかりつつ、習ひとりて侍りしかど、老の気のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍りにけれ。これはただ頗る覚え侍るなり』と言へば、聞く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物し給ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
『また、雨の降る日、うちながめ給ひて、
 あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣ひるよしもなき
 やがてかしこにて失せ給へる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生ほし給ひて、わたり住み給ふをこそは、ただ今の北野の宮と申して、現人神に御座しますめれば、おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこくあがめ奉り給ふめり。筑紫の御座しまし所は安楽寺と言ひて、おほやけより別当・所司などなさせ給ひて、いとやむごとなし。内裏焼けて度々造らせ給ふに、円融院の御時のことなり、工ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、昨日の裏板に物のすすけて見ゆる所のありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに、虫の食めるなりけり。その文字は、
 つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座しまして、延喜三年癸亥二月二十五日に失せ給ひしぞかし。御年五十九にて。
 さて後七年ばかりありて、左大臣時平のおとど、延喜九年四月四日失せ給ふ。御年三十九。大臣の位にて十一年ぞ御座しける。本院の大臣と申す。この時平のおとどの御女の女御も失せ給ふ。御孫の春宮も、一男八条の大将保忠卿も失せ給ひにきかし。この大将、八条に住み給へば、内に参り給ふほどいと遥かなるに、いかが思されけむ、冬は餅のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副に投げとらせ給ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思ひければこそ、かく言ひ伝へためれ。この殿ぞかし、病づきて、さまざま祈りし給ひ、薬師経の読経、枕上にてせさせ給ふに、「所謂宮毘羅大将」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思しけり。臆病に、やがて絶え入り給へば、経の文といふ中にも、こはき物の怪にとりこめられ給へる人に、げにあやしくはうちあげて侍りかし。さるべきとはいひながら、物は折ふしの言霊も侍ることなり。
 その御弟の敦忠の中納言も失せ給ひにき。和歌の上手、菅絃の道にもすぐれ給へりき。世にかくれ給ひて後、御遊びある折、博雅三位の、さはることありて参らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々召されて参るを見て、ふるき人々は、「世の末こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始め奉りて、世の大事に思ひ侍るべき物とこそ思はざりしか」とぞ宣ひける。
先坊に御息所参り給ふこと、本院のおとどの御女具して三四人なり。本院のは、失せ給ひにき。中将の御息所と聞こえし、後は重明の式部卿の親王の北の方にて、斎宮の女御の御母にて、そも失せ給ひにき。いとやさしく御座せし。先坊を恋ひかなしび奉り給ひ、大輔なむ、夢に見奉りたると聞きて、よみておくり給へる、
 時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき
御返りごと、大輔、
 恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば
いま一人の御息所は、玄上の宰相の女にや。その後朝の使、敦忠の中納言、少将にてし給ひける。宮失せ給ひて後、この中納言には会ひ給へるを、かぎりなく思ひながら、いかが見給ひけむ、文範の民部卿の、播磨守にて、殿の家司にて候はるるを、「我は命みじかき族なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会ひ給はむ」と宣ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給ひければ、「天がけりても見む。よにたがへ給はじ」など宣ひけるが、誠にさていまするぞかし。
 ただ、この君たちの御中には、大納言源昇の卿の御女の腹の顕忠のおとどのみぞ、右大臣までなり給ふ。その位にて六年御座せしかど、少し思すところやありけむ、出でて歩き給ふにも、家内にも、大臣の作法をふるまひ給はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前つがひ給はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候ひし。車副四人つがはせ給はざりき。御先も時々ほのかにぞ参りし。盥して御手すますことなかりき。寝殿の日隠の間に棚をして、小桶に小杓して置かれたれば、仕丁、つとめてごとに、湯を持て参りて入れければ、人してもかけさせ給はず、我出で給ひて、御手づからぞすましける。御召物は、うるはしく御器などにも参り据ゑで、ただ御土器にて、台などもなく、折敷などにとり据ゑつつぞ参らせける。
倹約し給ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所とにぞ、大臣とは見え給ひし。かくもてなし給ひし故にや、このおとどのみぞ、御族の中に、六十余りまで御座せし。四分一の家にて大饗し給へる人なり。富小路の大臣と申す。
 これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給はず。そのゆゑは、他のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠の大臣の御子、重輔の右衛門佐とて御座せしが御子なり、今の三井寺の別当心誉僧都・山階寺の権別当扶公僧都なり。この君達こそは物し給ふめれ。敦忠の中納言の御子あまた御座しける中に、兵衛佐なにがし君とかや申しし、その君出家して往生し給ひにき。その仏の御子なり、石蔵の文慶僧都は。敦忠の御女子は枇杷の大納言の北の方にて御座しきかし。あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。
 延喜の、世間の作法したためさせ給ひしかど、過差をばえしづめさせ給はざりしに、この殿、制を破りたる御装束の、ことのほかにめでたきをして、内に参り給ひて、殿上に候はせ給ふを、帝、小蔀より御覧じて、御気色いとあしくならせ給ひて、職事を召して、「世間の過差の制きびしき頃、左のおとどの一の人といひながら、美麗ことのほかにて参れる、便なきことなり。はやくまかり出づべきよし仰せよ」と仰せられければ、承る職事は、「いかなることにか」と怖れ思ひけれど、参りて、わななくわななく、「しかじか」と申しければ、いみじくおどろき、かしこまり承りて、御随身の御先参るも制し給ひて、急ぎまかり出で給へば、御前どもあやしと思ひけり。さて本院の御門一月ばかり鎖させて、御簾の外にも出で給はず、人などの参るにも、「勘当の重ければ」とて、会はせ給はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心あはせさせ給へりけるとぞ。
 物のをかしさをぞえ念ぜさせ給はざりける。笑ひたたせ給ひぬれば、頗ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給ふ間、非道なることを仰せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給ふことをいかがはと思して、「このおとどのし給ふことなれば、不便なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給ひけるを、なにがしの史が、「ことにも侍らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍らむ」と申しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給ふに、この史、文刺に文挟みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉るとて、いと高やかに鳴らして侍りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術なし。右のおとどにまかせ申す」とだに言ひやり給はざりければ、それにこそ菅原のおとど、御心のままにまつりごち給ひけれ。
 また、北野の、神にならせ給ひて、いとおそろしく神鳴りひらめき、清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、「生きてもわが次にこそ物し給ひしか。今日、神となり給へりとも、この世には、我に所置き給ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣ひける。一度はしづまらせ給へりけりとぞ、世の人、申し侍りし。されど、それは、かの大臣のいみじう御座するにはあらず、王威のかぎりなく御座しますによりて、理非を示させ給へるなり。