大鏡 - 太政大臣頼忠 廉義公

 このおとどは、小野宮実頼のおとどの二郎なり。御母、時平の大臣の御女、敦敏の少将の御同じ腹なり。大臣の位にて十九年、関白にて九年、この生きはめさせ給へる人ぞかし。三条よりは北、西洞院より東に住み給ひしかば、三条殿と申す。
この大臣、いみじきことどもしおき給へる人なり。賀茂詣に、検非違使、車のしりに具すること、また馬の上の随身、左右に四人つがはしむることも、この殿のしいで給へり。古は、物節のかぎり、一人づつありて、府生はなくて侍りしなり。一の人御座すなど見ゆること侍らざりけり。必ずかく侍るなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまり給ひて、殿のうちに宵にともしたる油を、またのつとめて、侍に油瓶を持たせて、女房の局までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせ給ひけり。あまりにうたてあることなりや。
 一条院位につかせ給ひしかば、よそ人にて、関白退かせ給ひにき。ただ、おほきおほいどのと申して、四条の宮にこそは、一つに住ませ給ひしか。それに、この前の師殿は、時の一の人の御孫にて、えもいはずはなやぎ給ひしに、六条殿の御婿にて御座せしかば、つねに西洞院のぼりに歩き給ふを、こと人ならばこと方よりよきても御座すべきを、大后・太政大臣の御座します前を、馬にてわたり給ふ。おほきおほいどのいとやすからず思せども、いかがはせさせ給はむ。なほいかやうにてかとゆかしく思して、中門の北廊の連子よりのぞかせ給へば、いみじうはやる馬にて、御紐おしのけて、雑色二三十人ばかりに、先いと高く御座せて、うち見いれつつ、馬の手綱ひかへて、扇高くつかひて通り給ふを、あさましく思せど、なかなかなることなれば、こと多くも宣はで、ただ、「なさけなげなる男にこそありけれ」とばかりぞ申し給ひける。非常のことなりや。さるは、師中納言殿の上の六条殿の姫君は、母は三条殿の御女に御座すれば、御孫ぞかし。されば、人よりは参りつかまつりだにこそし給ふべかりしか。この頼忠のおとど、一の人にて御座しまししかど、御直衣にて内に参り給ふこと侍らざりき。奏せさせ給ふべきことある折は、布袴にてぞ参り給ふ。さて、殿上に候はせ給ふ。年中行事の御障子のもとにて、さるべき職事蔵人などしてぞ、奏せさせ給ひ、承り給ひける。また、ある折は、鬼間に帝出でしめ給ひて、召しある折ぞ参り給ひし。関白し給へど、よその人に御座しましければにや。
 故中務卿代明の親王の御女の腹に、御女二人・男子一人御座しまして、大姫君は、円融院の御時の女御にて、天元五年三月十一日に后にたち給ひ、中宮と申しき。御年二十六。御子御座せず。四条の宮とぞ申すめりし。いみじき有心者・有識にぞいはれ給ひし。功徳も御祈も如法に行はせ給ひし。毎年の季の御読経なども、つねのこととも思し召したらず、四日がほど、二十人の僧を、房のかぎりめでたくて、かしづき据ゑさせ給ひ、湯あむし、斎などかぎりなく如法に供養せさせ給ひ、御前よりも、とりわきさるべきものども出ださせ給ふ。御みづからも清き御衣奉り、かぎりなくきよまはらせ給ひて、僧に賜ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせ給ひて後につかはしける。恵心の僧都の頭陀行せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎を設けつつ参りしに、この宮には、うるはしくかねの御器ども失せ給へりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食とどめ給ひてき。
 いま一所の姫君、花山院の御時の女御にて、四条宮に尼にて御座しますめり。
 やがて后・女御の一つ腹の男君、ただ今の按察大納言公任卿と申す。小野宮の御孫なればにや、和歌の道すぐれ給へり。世にはづかしく心にくきおぼえ御座す。その御女、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃多くの君達うみつづけ給へりつる、去年の正月に失せ給ひて、大納言よろづを知らず、思し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞ御座する。左大弁定頼の君、若殿上人の中に、心あり、歌なども上手にて御座すめり。母北の方いとあてに御座すかし。村上の九の宮の御女、多武峯の入道の少将、まちをさ君の御女の腹なり。内大臣殿の上も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。
 この大納言殿、無心のこと一度ぞ宣へるや。御妹の四条の宮の、后にたち給ひて、初めて入内し給ふに、洞院のぼりに御座しませば、東三条の前をわたらせ給ふに、大入道殿も、故女院も胸痛く思し召しけるに、按察大納言は后の御せうとにて、御心地のよく思されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたち給ふらむ」と、うち見入れて宣へりけるを、殿を始め奉りて、その御族やすからず思しけれど、男宮御座しませば、たけくぞ。よその人々も、「益なくも宣ふかな」と聞き給ふ。一条院、位につき給へば、女御、后にたち給ひて入内し給ふに、大納言殿の、亮につかまつり給へるに、出車より扇をさし出だして、「やや、物申さむ」と、女房の聞こえければ、「何事にか」とて、うち寄り給へるに、進の内侍、顔をさし出でて、「御妹の素腹の后は、いづくにか御座する」と聞こえかけたりけるに、「先年のことを思ひおかれたるなり。自らだにいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそ宣ひけれ。されど、人柄しよろづによくなり給ひぬれば、ことにふれて捨てられ給はず、かの内侍のとがなるにてやみにき。
 ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに作文の船・管絃の船・和歌の船と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」と宣はすれば、「和歌の船に乗り侍らむ」と宣ひて、よみ給へるぞかし、
  をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき
申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』と宣はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣ふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
 大臣、永祚元年六月二十六日に、失せ給ひて、贈正一位になり給ふ。廉義公とぞ申しける。この大臣の末、かくなり。