この大臣、忠平のおとどの五郎、小一条の大臣と聞えさせ給ふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣にうつり給ふこと、西宮殿、筑紫へ下り給ふ御替なり。その御ことのみだれは、この小一条の大臣のいひ出で給へるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過さず失せ給ふことをこそ申すめりしか。それも誠にや。
御娘、村上の御時の宣耀殿の女御、かたちをかしげにうつくしう御座しけり。内へ参り給ふとて、御車に奉り給ひければ、わが御身は乗り給ひけれど、御ぐしのすそは、母屋の柱のもとにぞ御座しける。一筋をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申し伝へためる。御目のしりの少しさがり給へるが、いとどらうたく御座するを、帝、いとかしこくときめかさせ給ひて、かく仰せられけるとか、
生きての世死にてののちの後の世もはねをかはせる鳥となりなむ
御返し、女御、
秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ
古今うかべ給へりと聞かせ給ひて、帝、こころみに本をかくして、女御には見せさせ給はで、「やまとうたは」とあるを始めにて、まへの句のことばを仰せられつつ、問はせ給ひけるに、いひたがへ給ふこと、詞にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣は聞き給ひて、御装束して、手洗ひなどして、所々に誦経などし、念じ入りてぞ御座しける。帝、箏の琴をめでたくあそばしけるも、御心にいれてをしへなど、かぎりなくときめき給ふに、冷泉院の御母后失せ給ひてこそ、なかなかこよなく覚え劣り給へりとは聞え給ひしか。「故宮のいみじうめざましく、やすらかぬ物に思したりしかば、思ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰せられける。
この女御の御腹に、八の宮とて男親王一人生れ給へり。御かたちなどは清げに御座しけれど、御心きはめたる白物とぞ、聞き奉りし。世の中のかしこき帝の御ためしに、もろこしには堯・舜の帝と申し、この国には延喜・天暦とこそは申すめれ。延喜とは醍醐の先帝、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝の御子、小一条の大臣の御孫にて、しかしれ給へりける、いとどあやしきことなりかし。
その母女御の御せうと、済時の左大将と申しし、長徳元年己未四月二十三日失せ給ひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞になどぞ御座せし。御妹の女御殿に、村上の、琴をしへさせ給ひける御前に候ひ給ひて、聞き給ふほどに、おのづから、われもその道の上手に、人にも思はれ給へりしを、おぼろけにて心よくならし給はず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、物一つばかりかきあはせなどし給ひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれ給ひき。人の奉りたる贄などいふ物は、御前の庭にとりおかせ給ひて、夜は贄殿に納め、昼はまたもとのやうにとり出でつつ置かせなど、また人の奉りかふるまでは置かせ給ひて、とりうごかすことはせさせ給はぬ、あまりやさしきことなりな。人などの参るにも、かくなむと見せ給ふ料なめり。昔人はさることをよきにはしければ、そのままの有様をせさせ給ふとぞ。
かくやうにいみじう心ありて思したりしほどよりは、よしなしごとし給へりとぞ、人にいはれ給ふめりし。御甥の八の宮に大饗せさせ奉り給ひて、上戸に御座すれば、人々酔はしてあそばむなど思して、「さるべき上達部たちとく出づる物ならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせ給へ」と、よくをしへまうさせ給へりけり。さこそ人がらあやしくしれ給へれど、やむごとなき親王の大事にし給ふことなれば、人々あまた参りたりしも古体なりかし。されど、公事さしあはせたる日なれば、いそぎ出で給ふに、まことさることありつ、と思し出でて、大将の御方をあまたたび見やらせ給ふに、目をくはせ給へば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出でさせ給はず、物も仰せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上の衣の片袂落ちぬばかり、とりかからせ給ふに、参りと参る上達部は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道殿などは、若殿上人にて御座しましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出で給ひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語り給ふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせ奉りて、また、しか宣へとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思すに、御色も青くなりてぞ御座しける。誠に、親王をば、もとよりさる人と知りまうしたれば、これをしも、謗りまうさず、この殿をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様を、あまた人に見せきこえ給へること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚え御座せし人の、口惜しき辱号とり給へるよ。
この殿の御北の方にては、枇杷の大納言延光の御女ぞ御座する。女君二所・男君二人ぞ御座せし。女君は、三条院の東宮にて御座しましし折の女御にて、宣耀殿と申して、いと時に御座しましし。男親王四所・女宮二人、生れ給へりしほどに、東宮、位につかせ給ひてまたの年、長和元年四月二十八日、后にたち給ひて、皇后宮と申す。また、いま一所の女君は、父殿失せ給ひにし後、御心わざに、冷泉院の四の親王、師の宮と申す御上にて、二三年ばかり御座せしほどに、宮、和泉式部に思しうつりにしかば、本意なくて、小一条に帰らせ給ひにし後、この頃、聞けば、心えぬ有様の、ことのほかなるにてこそ御座すなれ。
この殿の御おもておこし給ふは、皇后宮に御座しましき。この宮の御腹の一の親王敦明の親王とて、式部卿と申ししほどに、長和五年正月二十九日、三条院おりさせ給へば、この式部卿、東宮にたたせ給ひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思し召しけむ、宮たちと申しし折、よろづに遊びならはせ給ひて、うるはしき御有様いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思しなられて、皇后宮に、「かくなむ思ひ侍る」と申させ給ふを、「いかでかは、げにさもとは思さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」とのみ諌めまうさせ給ふに、思しあまりて、入道殿に御消息ありければ、参らせ給へるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思ひ侍る」と聞えさせ給ひければ、「さらにさらに承らじ。さは、三条院の御末はたえねと思し召し、おきてさせ給ふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかせ給ふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物の怪などの思はせ奉るなり。さ思し召すべきぞ」と啓し給ふに、「さらば、ただ本意ある出家にこそはあなれ」と宣はするに、「さまで思し召すことなれば、いかがはともかくも申さむ。内に奏し侍りてを」と申させ給ふ折にぞ、御けしきいとよくならせ給ひにける。
さて、殿、内に参り給ひて、大宮にも申させ給ひければ、いかがは聞かせ給ひけむな。このたびの東宮には式部卿の宮をとこそは思し召すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見なければ、東宮に当代を奉るなり」と仰せられしかば、これも同じことなりと思しさだめて、寛仁元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮にたたせ給ひて、
同じ月の二十三日にこそは、壺切といふ太刀は、内より持て参りしか。当代位につかせ給ひしかば、すなはち東宮にも参るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃、内の納殿に候ひつるぞかし。
寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服せさせ給ひしか。前の東宮をば小一条院と申す。今の東宮の御有様、申すかぎりなし。つひのこととは思ひながら、ただいまかくとは思ひかけざりしことなりかし。
小一条院、わが御心と、かく退かせ給へることは、これを始めとす。世始まりて後、東宮の御位とり下げられ給へることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師東宮御座しけるこそ、失せ給ひて後に、贈太上天皇と申して、六十余国にいはひすゑられ給へれ。公家にも知ろしめして、官物のはつをさき奉らせ給ふめり。この院のかく思したちぬること、かつは殿下の御報の早く御座しますにおされ給へるなるべし。また多くは元方の民部卿の霊のつかうまつるなり。」といへば、侍、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍れ。なにがしは、いとくはしく承ること侍る物を」といへば、世継、「さも侍るらむ。伝はりぬることは、いでいで承らばや。ならひにしことなれば、物のなほ聞かまほしく侍るぞ」といふ。興ありげに思ひたれば、
「ことの様体は、三条院の御座しましけるかぎりこそあれ、失せさせ給ひにける後は、世の常の東宮のやうにもなく、殿上人参りて、御遊びせさせ給ひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思し召されけるままに、心やすかりし御有様のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせ給ひけれど、三条院御座しましつるかぎりは、院の殿上人も参りや、御使もしげく参り通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせ給ふを、院失せ御座しましては、世の中の物おそろしく、大路の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司などだにも、参りつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司の下部、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。
まれまれ参りよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくて御座しますを、心ぐるしく殿も大宮も思ひまうさせ給ふに、『もし、内に男宮も出で御座しましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮にたて奉らばや』となむ仰せらるなる。されば、おしてとられさせ給ふべかむなり」などのみ申すを、誠にしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞かせ給ふ御心地は、いとどうきたるやうに思し召されて、ひたぶるにとられむよりは、我とや退きなまし、と思し召すに、また、「高松殿の御匣殿参らせ給ひ、殿、はなやかにもてなし奉らせ給ふべかなり」とも、例のことなれば、世の人のさまざま定め申すを、皇后宮、聞かせ給ひて、いみじう喜ばせ給ふを、東宮は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思されて、御母宮に、「しかじかなむ思ふ」と聞えまうさせ給へば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせ給はめ。さらにさらに思しよるまじきことなり」と聞えさせ給ひて、御物の怪のするなりと、御祈どもせさせ給へど、さらに思しとどまらぬ御心のうちを、いかでか世の人も聞きけむ、「さてなむ、『御匣殿参らせ奉り給へ』とも聞えさせ給ふべかなる」などいふこと、殿の辺にも聞ゆれば、誠にさも思しゆるぎて宣はせば、いかがすべからむ、など思す。
さて東宮はつひに思し召したちぬ。後に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思しなしけむ、不覚のことなりや。
壺切などのこと、僻事に候ふめり。故三条院たびたび申させ給ひしかども、とかく申しやりて奉らせざりしとこそ聞き侍りしか。されば、故院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、御座しまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申させて。
皇后宮にもかくとも申し給はず、ただ御心のままに、殿に御消息聞えむと思し召すに、むつましうさるべき人も物し給はねば、中宮権大夫殿の御座します四条の坊門と西洞院とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思し召しよりけむ、蔵人なにがしを御使にて、「あからさまに参らせ給へ」とあるを、思しもかけぬことなれば、おどろき給ひて、「なにしに召すぞ」と問ひ給へば、「申させ給ふべきことの候ふにこそ」と申すを、この聞ゆることどもにや、と思せど、退かせ給ふことは、さりともよにあらじ、御匣殿の御ことならむ、と思す。いかにもわが心ひとつには、思ふべきことならねば、「おどろきながら参り候ふべきを、大臣に案内申してなむ候ふべき」と申し給ひて、まづ、殿に参り給へり。「東宮より、しかじかなむ仰せられたる」と申し給へば、殿もおどろき給ひて、「何事ならむ」と仰せられながら、大夫殿と同じやうにぞ思しよらせ給ひける。誠に御匣殿の御こと宣はせむを、いなびまうさむも便なし。参り給ひなば、また、さやうにあやしくてはあらせ奉るべきならず。また、さては世の人の申すなるやうに、東宮退かせ給はむの御思ひあるべきならずかし、とは思せど、「しかわざと召さむには、いかでか参らではあらむ。いかにも、宣はせむことを聞くべきなり」と申させ給へば、参らせ給ふほど、日も暮れぬ。
陣に左大臣殿の御車や、御前どものあるを、なまむつかしと思し召せど、帰らせ給ふべきならねば、殿上に上らせ給ひて、「参りたるよし啓せよ」と、蔵人に宣はすれば、「おほい殿の、御前に候はせ給へば、ただいまはえなむ申し候はぬ」と聞えさするほど、見まはさせ給ふに、庭の草もいと深く、殿上の有様も、東宮の御座しますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出で給ひて、かくと啓すれば、朝餉の方に出でさせ給ひて、召しあれば、参り給へり。「いと近く、こち」と仰せられて、「物せらるることもなきに、案内するもはばかり多かれど、大臣に聞ゆべきことのあるを、伝へ物すべき人のなきに、間近きほどなれば、たよりにもと思ひて消息し聞えつる。その旨は、かくて侍るこそは本意あることと思ひ、故院のしおかせ給へることをたがへ奉らむも、かたがたにはばかり思はぬにあらねど、かくてあるなむ、思ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内の御ゆく末はいと遥かに物せさせ給ふ。いつともなくて、はかなき世に命も知りがたし。この有様退きて、心に任せて行ひもし、物詣をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号給ひて、年に受領などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰せられければ、かしこまりてまかでさせ給ひぬ。
その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿に参らせ給へるに、内へ参らせ給はむとて、御装束のほどなれば、え申させ給はず。おほかたには御供に参るべき人々、さらぬも、出でさせ給はむに見参せむと、多く参り集りて、さわがしげなれば、御車に奉りに御座しまさむに申さむとて、そのほど、寝殿の隅の間の格子によりかかりてゐさせ給へるを、源民部卿寄り御座して、「などかくては御座します」と聞えさせ給へば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々も候へば、え申さぬなり」と宣はするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろき給ふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞かせ奉り給へ。内に参らせ給ひなば、いとど人がちにて、え申させ給はじ」とあれば、げにと思して、御座します方に参り給へれば、さならむと御心得させ給ひて、隅の間に出でさせ給ひて、「春宮に参りたりつるか」と問はせ給へば、よべの御消息くはしく申させ給ふに、さらなりや、おろかに思し召さむやは。おしておろし奉らむこと、はばかり思し召しつるに、かかることの出で来ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮の御宿世かな、と思し召す。
民部卿殿に申しあはせさせ給へば、「ただとくとくせさせ給ふべきなり。なにか吉日をも問はせ給ふ。少しも延びば、思しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせ給はむ」と申させ給へば、さることと思して、御暦御覧ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白殿も参り給へるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせ給ふに、「まづいかにも大宮に申してこそは」とて、内に御座しますほどなれば、参らせ給ひて、「かくなむ」と聞かせ奉らせ給へば、まして女の御心はいかが思し召されけむ。それよりぞ、東宮に参らせ給ひて。
御子どもの殿ばら、また例も御供に参り給ふ上達部・殿上人引き具せさせ給へれば、いとこちたく、ひびきことにて御座しますを、待ちつけ給へる宮の御心地は、さりとも、少しすずろはしく思し召されけむかし。
心も知らぬ人は、つゆ参りよる人だになきに、昨日、二位中将殿の参り給へりしだにあやしと思ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣などのやうに、御先の音もおどろおどろしうひびきて参らせ給へるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿の御こと申させ給ふなめり」と思ふは、さも似つかはしや。むげに思ひやりなき際のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかに御座しますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮だにえ知らせ給はざりけり。かくこの御方に物さわがしきを、いかなることぞとあやしう思して、案内しまうさせ給へど、例の女房の参る道を、かためさせ給ひてけり。
殿には、年頃思し召しつることなどこまかに聞えむと、心強く思し召しつれど、誠になりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせ給ひぬ。向ひきこえさせ給ひては、かたがたに臆せられ給ひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少なに仰せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思し召しよりぬるぞ」などやうに申させ給ひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見奉らせ給ひて、少しおし拭はせ給ひて、「さらば、今日、吉日なり」とて、院になし奉らせ給ふ。やがてことども始めさせ給ひぬ。よろづのこと定め行はせ給ふ。判官代には、宮司ども・蔵人などかはるべきにあらず。別当には中宮権大夫をなし奉り給へれば、おりて拝しまうさせ給ふ。ことども定まりはてぬれば、出でさせ給ひぬ。
いとあはれに侍りけることは、殿のまだ候はせ給ひける時、母宮の御方より、いづかたの道より尋ね参りたるにか、あらはに御覧ずるも知らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房の、わななくわななく、「いかにかくはせさせ給へるぞ」と、声もかはりて申しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰せられけれ。勅使こそ誰ともたしかにも聞き侍らね。禄など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、
「殿こそはせさせ給ひけめ。さばかりのことになりて、逗留せさせ給はむやは」
「火焚屋・陣屋などとりやられけるほどにこそ、え堪へずしのび音泣く人々侍りけれ。まして皇后宮・堀河の女御殿など、さばかり心深く御座します御心どもに、いかばかり思し召しけむとおぼえ侍りし。世の中の人、「女御殿、
雲居まで立ちのぼるべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな といふ歌よみ給へり」など申すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思しよらじかしな。御心のうちには、おのづから後にも、おぼえさせ給ふやうもありけめど、人の聞き伝ふるばかりは、いかがありけむ」といへば、翁、
「げにそれはさることに侍れど、昔もいみじきことの折、かかることいと多くこそ聞え侍りしか」
とてささめくは、いかなることにか。
「さて、かくせめおろし奉り給ひては、また御婿にとり奉らせ給ふほど、もてかしづき奉らせ給ふ御有様、誠に御心もなぐさませ給ふばかりこそ聞え侍りしか。おもの参らする折は、台盤所に御座しまして、御台や盤などまで手づから拭はせ給ふ。なにをも召し試みつつなむ参らせ給ひける。御障子口までもて御座しまして、女房に給はせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきやうにをしへなど、これこそは御本意よと、あはれにぞ。「このきはに、故式部卿の宮の御ことありけり」といふ、そらごとなり。なにゆゑ、あることにもあらなくに、昔のことどもこそ侍れ、御座します人の御こと申す、便なきことなりかし」
「さて、式部卿の宮と申すは、故一条院の一の皇子に御座します。その宮をば、年頃、帥の宮と申ししを、小一条院、式部卿にて御座しまししが、東宮にたち給ひて、あく所に、帥をば退かせ給ひて、式部卿とは申ししぞかし。その後の度の東宮にもはづれ給ひて、思し嘆きしほどに失せ給ひにし後、またこの小一条院の御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそは、式部卿とは申すめれ。また次の三の宮敦平の親王を、中務の宮と申す。次の四の宮師明の親王と申す。幼くより出家して、仁和寺の僧正のかしづきものにて御座しますめり。この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所は、やがて三条院の御時の斎宮にて下らせ給ひにしを、上らせ給ひて後、荒三位道雅の君に名だたせ給ひにければ、三条院も御悩の折、いとあさましきことに思し嘆きて、尼になし給ひて失せ給ひにき。いま一所の女宮まだ御座します。
小一条の大将の御姫君ぞ、ただいまの皇后宮と申しつるよ。
三条院の御時に、后にたて奉らむと思しける。こちよりては、大納言の女の、后にたつ例なかりければ、御父大納言を贈太政大臣になしてこそは、后にたてさせ給ひてしか。されば皇后宮いとめでたく御座しますめり。御せうと、一人は侍従の入道、いま一所は大蔵卿通任の君こそは御座すめれ。
また、伊予の入道もそれぞかし。
いま一所の女君こそは、いとはなはだしく心憂き御有様にて御座すめれ。父大将のとらせ給へりける処分の領所、近江にありけるを、人にとられければ、すべき様なくて、かばかりになりぬれば、物のはづかしさも知られずや思はれけむ、夜、かちより御堂に参りて、うれへ申し給ひしはとよ。
殿の御前は、阿弥陀堂の仏の御前に念誦して御座しますに、夜いたくふけにければ、御脇息によりかかりて、少し眠らせ給へるに、犬防のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思し召しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「物申し候はむ」と申すを、御僻耳かと思し召すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思し召して、いとあやしくはあれど、「誰そ、あれは」と問はせ給ふに、「しかじかの人の、申すべきこと候ひて、参りたるなり」と申しければ、いといとあさましくは思し召せど、あらく仰せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事ぞ」と問はせ給ひければ、「知ろしめしたることに候ふらむ」とて、ことの有様こまかに申し給ふに、いとあはれに思し召して、「さらなり、みな聞きたることなり。いと不便なることにこそ侍るなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせ給はめ。とく帰られね」と仰せられければ、「さこそはかへすがへす思ひ給へ候ひつれど、申しつぐべき人のさらに候はねば、さりともあはれとは仰せ言候ひなむ、と思ひ給へて、参り候ひながらも、いみじうつつましう候ひつるに、かく仰せらるる、申しやるかたなくうれしく候ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思し召されて、殿も泣かせ給ひにけり。
出で給ふ途に、南大門に人々ゐたる中を御座しければ、なにがしぬしの引き留められけるこそ、いと無愛のことなりや。後に、殿も聞かせ給ひければ、いみじうむつからせ給ひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領にてあるべきよし、仰せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じ給ふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、物の恥しらでありなむ。かしこく申し給へる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえ侍りしか。大門にてとらへたりし人は、式部大夫源政成が父なり。