大鏡 - 右大臣師輔

「この大臣は、忠平の大臣の二郎君、御母、右大臣源能有の御女、いはゆる、九条殿に御座します。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞ御座しましし。御孫にて、東宮、また、四・五の宮を見おき奉りてかくれ給ひけむは、きはめて口惜しき御ことぞや。御年まだ六十にもたらせ給はねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやく物から、手を打ちてあふぐ。
「その殿の御公達十一人、女五六人ぞ、御座しましし。第一の御女、村上の先帝の御時の女御、多くの女御、御息所のなかに、すぐれてめでたく御座しましき。帝も、この女御殿にはいみじう怖ぢまうさせ給ひ、ありがたきことをも奏せさせ給ふことをば、いなびさせ給ふべくもあらざりけり。いはむや自余のことをば申すべきならず。少し御心さがなく、御物怨みなどせさせ給ふやうにぞ、世の人にいはれ御座しましし。帝をもつねにふすべまうさせ給ひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせ御座しましたりけるを、御格子を叩かせ給ひけれど、あけさせ給はざりければ、叩きわづらはせ給ひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問へ」と、なにがしのぬしの、童殿上したるが御供なるに仰せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄りてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、参りて、ありつるやうを奏しければ、帝もうち笑はせ給ひて、「例のことななり」と仰せられてぞ、帰りわたらせ御座しましける。この童は、伊賀前司資国が祖父なり。
 藤壷・弘徽殿との上の御局は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条の女御、弘徽殿にはこの后の上りて御座しましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたく御座しましけむ、中隔の壁に穴をあけて、のぞかせ給ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたく御座しましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御覧ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴よりとほるばかりの土器のわれして、打たせ給へりければ、帝御座しますほどにて、こればかりはえたへさせ給はずむつかり御座しまして、「かうやうのことは、女房はせじ。伊尹・兼通・兼家などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰せられて、皆、殿上に候はせ給ふほどなりければ、三所ながら、かしこまらせ給へりしかば、その折に、いとどおほきに腹立たせ給ひて、「わたらせ給へ」と申させ給へば、思ふにこのことならむ、と思し召して、わたらせ給はぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思し召して、御座しましけるに、「いかでかかることはせさせ給ふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思しゆるすべきなり。いはむや、まろが方ざまにてかくせさせ給ふは、いとあさましう心憂きことなり。ただいま召し返せ」と申させ給ひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞き見ぐるしきことなり」と聞えさせ給ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせ給ひければ、「さらば」とて、帰りわたらせ給ふを、「御座しましなば、ただいまもゆるさせ給はじ。ただこなたにてを召せ」とて、御衣をとらへ奉りて、立て奉らせ給はざりければ、いかがはせむと思し召して、この御方へ職事召してぞ、参るべきよしの宣旨下させ給ひける。これのみにもあらず、斯様なることども多く聞え侍りしかは。
 おほかたの御心はいとひろく、人のためなどにも思ひやり御座しまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせ給はず、御かへりみあり。かたへの女御たちの御ためも、かつは情あり、御みやびをかはさせ給ふに、心よりほかにあまらせ給ひぬる時の御物妬みのかたにや、いかが思し召しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたく御座すればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。斯様のことまでは申さじ、いとかたじけなし。
 おほかた、殿上人・女房、さるまじき女官までも、さるべき折のとぶらひせさせ給ひ、いかなる折も、かならず見過し聞き放たせ給はず、御覧じ入れて、かへりみさせ給ひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄をば親のやうに頼みまうさせ給ひ、御弟をば子のごとくにはぐくみ給ひし御心おきてぞや。されば、失せ御座しましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界まで聞きつぎ奉りて、惜しみ悲しびまうししか。帝、よろづの政をば聞えさせ合せてせさせ給ひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直させ給ふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申させ給ひ、おのづからおほやけ聞し召してあしかりぬべきことなど人の申すをば、御口より出させ給はず。斯様なる御心おもむけのありがたく御座しませば、御祈ともなりて、ながく栄え御座しますにこそあべかめれ。
 冷泉院・円融院・為平の式部卿の宮と、女宮四人との御母后にて、またならびなく御座しましき。帝・春宮と申し、代代の関白・摂政と申すも、多くは、ただこの九条殿の御一筋なり。男宮たちの御有様は、代々の帝の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申し侍らむ。
この后の御腹には、式部卿の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮にもたち給ふべきに、西宮殿の御婿に御座しますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせ給へるほどなどのことども、いといみじく侍る。そのゆゑは、式部卿の宮、帝にゐさせ給ひなば、西宮殿の族に世の中うつりて、源氏の御栄えになりぬべければ、御舅たちの魂深く、非道に御弟をば引き越しまうさせ奉らせ給へるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿ばらの思しかまへけるをば、いかでかは知らむ。次第のままにこそはと、式部卿の宮の御ことをば思ひまうしたりしに、にはかに、「若宮の御ぐしかいけづり給へ」など、御乳母たちに仰せられて、大入道殿、御車にうち乗せ奉りて、北の陣よりなむ御座しましけるなどこそ、伝へ承りしか。されば、道理あるべき御方人たちは、いかがは思されけむ。その頃、宮たちあまた御座せしかど、ことしもあれ、威儀の親王をさへせさせ給へりしよ。見奉りける人も、あはれなることにこそ申しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地よな、いかが思しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出できにしは。斯様に申すも、なかなかいとどことおろかなりや。かくやうのことは、人中にて、下臈の申すにいとかたじけなし、とどめ候ひなむ。されどなほ、われながら無愛のものにて、おぼえ候ふにや。
 式部卿の宮、わが御身の口惜しく本意なきを、思しくづほれても御座しまさで、なほ末の世に、花山院の帝は、冷泉院の皇子に御座しませば、御甥ぞかし、その御時に、御女奉り給ひて、御みづからもつねに参りなどし給ひけるこそ、「さらでもありぬべけれ」と、世の人もいみじう謗りまうしけり。さりとても、御継などの御座しまさば、いにしへの御本意のかなふべかりけるとも見ゆべきに、帝、出家し給ひなどせさせ給ひて後、また今の小野宮の右大臣殿の北の方にならせ給へりしよ、いとあやしかりし御ことどもぞかし。その女御殿には、道信の中将の君も御消息聞え給ひけるに、それはさもなくて、かの大臣に具し給ひければ、中将の申し給ふぞかし、「憂きは身にしむ心地こそすれ」とは、今に人の口にのりたる秀歌にて侍めり。
 まこと、この式部卿の宮は、世にあはせ給へるかひある折一度御座しましたるは、御子の日ぞかし。御弟の皇子たちもまだ幼く御座しまして、かの宮おとなに御座しますほどなれば、世覚え・帝の御もてなしもことに思ひまうさせ給ふあまりに、その日こそは、御供の上達部・殿上人などの狩装束・馬鞍まで内裏のうちに召し入れて御覧ずるは、またなきこととこそは承れ。滝口をはなちて、布衣のもの、内に参ることは、かしこき君の御時も、かかることの侍りけるにや。おほかたいみじかりし日の見物ぞかし。物見車、大宮のぼりに所やは侍りしとよ。さばかりのことこそ、この世にはえ候はね。
 殿ばらの、宣ひけるは、大路わたることは常なり。藤壷の上の御局につぶとえもいはぬ打出ども、わざとなくこぼれ出でて、后の宮・内の御前などさしならび、御簾のうちに御座しまして御覧ぜし御前通りしなむ、たふれぬべき心地せし」とこそ宣ひけれ。またそれのみかは、大路にも宮の出車十ばかり引きつづけて立てられたりしは。一町かねてあたりに人もかけらず、滝口・侍の御前どもに選りととのへさせ給へりし、さるべきものの子どもにて、心のままに、今日はわが世よと、人払はせ、きらめきあへりし気色どもなど、よそ人、誠にいみじうこそ見侍りしか」とて、車の衣の色などをさへ語りゐたるぞあさましきや。
「さて、この御腹に御座しましし、女宮一所こそ、いとはかなく、失せ給ひにしか。」いま一所、入道一品の宮とて三条に御座しましき。失せ給ひて十余年にやならせ給ひぬらむ。うみおき奉らせ給ひしたびの宮こそは、今の斎院に御座しませ。いつきの宮、世に多く御座しませど、これはことにうごきなく、世にひさしくたもち御座します。ただこの御一筋のかく栄え給ふべきとぞ見まうす。昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませ給ひけれど、この宮には仏法をさへあがめ給ひて、朝ごとの御念誦かかせ給はず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせ給ふめれ。いととうより神人にならせ給ひて、いかでかかることを思し召しよりけむとおぼえ候ふは。賀茂の祭の日、一条大路に、そこら集りたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせ給ひけむこそ、なほあさましく侍れ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせ給はぬか。御禊より始め三箇日の作法、出車などのめでたさ、おほかた御さまのいと優に、らうらうじく御座しましたるぞ。
今の関白殿、兵衛左にて、御禊に御前せさせ給へりしに、いと幼く御座しませば、例は本院に帰らせ給ひて、人々に禄など給はするを、これは川原より出でさせ給ひしかば、思ひがけぬ御ことにて、さる御心もうけもなかりければ、御前に召しありて、御対面などせさせ給ひて、奉り給へりける小袿をぞ、かづけ奉らせ給へりける。入道殿、聞かせ給ひて、「いとをかしくもし給へるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやり給はむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せ給ふなめり。えせ者は、え思ひよらじかし」とぞ申させ給ひける。
 この当代や東宮などの、まだ宮たちにて御座しましし時、祭見せ奉らせ給ひし御桟敷の前過ぎさせ給ふほど、殿の御膝に、二所ながらすゑ奉らせ給ひて、「この宮たち見奉らせ給へ」と申させ給へば、御輿の帷より赤色の御扇のつまをさし出で給へりけり。殿を始め奉りて、「なほ心ばせめでたく御座する院なりや。かかるしるしを見せ給はずは、いかでか、見奉り給ふらむとも知らまし」とこそは、感じ奉らせ給ひけれ。院より大宮に聞えさせ給ひける、
  ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積みけるもうれしかりけり
御返し、
  もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ
げに賀茂の明神などのうけ奉り給へればこそ、二代までうちつづき栄えさせ給ふらめな。このこと、「いとをかし失せさせ給へり」と、世の人申ししに、前帥のみぞ、「追従ぶかき老ぎつねかな。あな、愛敬な」と申し給ひける。
 まこと、この后の宮の御おととの中の君は、重明の式部卿の宮の北の方にて御座しまししぞかし。その親王は、村上の御はらからに御座します。この宮の上、さるべきことの折は、物見せ奉りにとて、后の迎へ奉り給へば、忍びつつ参り給ふに、帝ほの御覧じて、いとうつくしう御座しましけるを、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思ふ」とあながちにせめ申させ給へば、一二度、知らず顔にて、ゆるしまうさせ給ひけり。さて後、御心は通はせ給ひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思し召しけむ、后、さらぬことだに、この方ざまは、なだらかにもえつくりあへさせ給はざめる中に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思し召すべけれど、御あたりをひろうかへりみ給ふ御心深さに、人の御ため聞きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出でず、過させ給ひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后の宮失せさせ御座しまして後に、召しとりて、いみじうときめかさせ給ひて、貞観殿の尚侍とぞ、申ししかし。世になく覚え御座して、こと女御・御息所そねみ給ひしかども、かひなかりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申し」ける。
 また三の君は、西宮殿の北の方にて御座せしを、御子うみて、失せ給ひにしかば、よその人は、君達の御ためあしかりなむとて、また御おととの五にあたらせ給ふ愛宮と申ししにうつらせ給ひにき。四の君はとく失せ給ひにき。六の君、冷泉院の東宮に御座しまししに、参らせ給ひなど、女君たちは、皆かく御座しまさふ。
 男君たちは、十一人の御中に、五人は太政大臣にならせ給へり。それあさましうおどろおどろしき御幸ひなりかし。その御ほかは右兵衛督忠君、また北野の三位遠度、大蔵卿遠量、多武峯の入道少将なり。また法師にては、飯室の権僧正、今の禅林寺の僧正などにこそ御座しますめれ。法師といへども、世の中の一の験者にて、仏のごとくに公私、頼みあふぎまうさぬ人なし。また北野の三位の御子は、尋空律師・朝源律師などなり。また大蔵卿の御子は、粟田殿の北の方、今の左衛門督の母上。この御族、斯様にぞ御座しますなかにも、多武峯の少将、出家し給へりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなることどもの侍りしかは。なかにも、帝の御消息つかはしたりしこそ、おぼろけならず、御心もや乱れ給ひけむと、かたじけなく承りしか。
  みやこより雲のうへまで山の井の横川の水はすみよかるらむ
御返し、
  九重のうちのみつねにこひしくて雲の八重たつ山はすみ憂し
始めは、横川に御座して、後に多武峯には住ませ給ひしぞかし。いといみじう侍りしことぞかし。されども、それは九条殿・后の宮など失せさせ御座しまして後のことなり。
 この馬頭殿の御出家こそ、親たちの栄えさせ給ふことの始めをうちすてて、いといとありがたく悲しかりし御ことよ。とうより、さる御心まうけは思しよらせ給ひにけるにや、御はらからの君たちに具し奉りて、正月二七夜のほどに、中堂に登らせ給へりけるに、さらに御行ひもせで、大殿篭りたりければ、殿ばら、暁に、「など、かくては臥し給へる。起きて、念誦もせさせ給へかし」と申させ給ひければ、「いま一度に」と宣ひしを、その折は、思ひもとがめられざりき。「斯様の御有様を思しつづけけるにや」とこそ、この折には、君たち思し出でて申し給ひけれ。さりとて、うち屈しやいかにぞやなどある御けしきもなかりけり。人よりことにほこりかに、心地よげなる人柄にてぞ御座しましける。
 この九条殿は、百鬼夜行にあはせ給へるは。いづれの月といふことは、え承らず、いみじう夜ふけて、内より出で給ふに、大宮より南ざまへ御座しますに、あははの辻のほどにて、御車の簾うち垂れさせ給ひて、「御車牛もかきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰せられければ、あやしと思へど、かきおろしつ。御随身・御前どもも、いかなることの御座しますぞと、御車のもとに近く参りたれば、御下簾うるはしくひき垂れて、御笏とりて、うつぶさせ給へるけしき、いみじう人にかしこまりまうさせ給へるさまにて御座します。「御車は榻にかくな。ただ随身どもは、轅の左右の軛のもとにいと近く候ひて、先を高く追へ。雑色どもも声絶えさすな。御前ども近くあれ」と仰せられて、尊勝陀羅尼をいみじう読み奉らせ給ふ。牛をば御車の隠れの方にひき立てさせ給へり。さて、時中ばかりありてぞ、御簾あげさせ給ひて、「今は、牛かけてやれ」と仰せられけれど、つゆ御供の人は心えざりけり。後々に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍びて語り申させ給ひけめど、さるめづらしきことは、おのづから散り侍りけるにこそは。
 元方の民部卿の御孫、儲の君にて御座する頃、帝の御庚申せさせ給ふに、この民部卿参り給へり、さらなり。九条殿、候はせ給ひて、人々あまた候ひ給ひて、攤打たせ給ふついでに、冷泉院の孕まれ御座しましたるほどにて、さらぬだに世の人いかがと思ひまうしたるに、九条殿、「いで、今宵の攤つかうまつらむ」と仰せらるるままに、この孕まれ給へる御子、男に御座しますべくは、調六出で来」とて、打たせ給へりけるに、ただ一度に出でくる物か。ありとある人、目を見かはして、めで感じもてはやし給ひ、御みづからもいみじと思したりけるに、この民部卿の御けしきいとあしうなりて、色もいと青くこそなりたりけれ。さて後に、霊に出でまして、「その夜やがて、胸に釘はうちてき」とこそ宣ひけれ。
 おほかた、この九条殿、いとただ人には御座しまさぬにや、思しよるゆく末のことなども、かなはぬはなくぞ御座しましける。口惜しかりけることは、まだいと若く御座しましける時、「夢に、朱雀門の前に、左右の足を西東の大宮にさしやりて、北向きにて内裏を抱きて立てりとなむ見えつる」と仰せられけるを、御前になまさかしき女房の候ひけるが、「いかに御股痛く御座しましつらむ」と申したりけるに、御夢たがひて、かく子孫は栄えさせ給へど、摂政・関白えし御座しまさずなりにしなり。また御末に思はずなることのうちまじり、帥殿の御ことなども、かれがたがひたる故に侍るめり。「いみじき吉相の夢もあしざまにあはせつればたがふ」と、昔より申し伝へて侍ることなり。荒涼して、心知らざらむ人の前に、夢語りな、この聞かせ給ふ人々、し御座しまされそ。今ゆく末も九条殿の御末のみこそ、とにかくにつけて、ひろごり栄えさせ給はめ。
 いとをかしきことは、かくやむごとなく御座します殿の、貫之のぬしが家に御座しましたりしこそ、なほ和歌はめざましきことなりかしと、おぼえ侍りしか。正月一日つけさせ給ふべき魚袋のそこなはれたりければ、つくろはせ給ふほど、まづ貞信公の御もとに参らせ給ひて、「かうかうのことの侍れば、内に遅く参る」のよしを申させ給ひければ、おほきおとど驚かせ給ひて、年頃持たせ給へりける、取り出でさせ給ひて、やがて、「あえものにも」とて奉らせ給ふを、ことうるはしく松の枝につけさせ給へり。その御かしこまりのよろこびは、御心のおよばぬにしも御座しまさざらめど、なほ貫之に召さむ、と思し召して、わたり御座しましたるを、待ちうけましけむ面目、いかがおろかなるべきな。
  吹く風にこほりとけたる池の魚千代まで松のかげにかくれむ
集に書き入れたる、ことわりなりかし。
 いにしへより今にかぎりもなく御座します殿の、ただ冷泉院の御有様のみぞ、いと心憂く口惜しきことにては御座します」といへば、侍、
「されど、ことの例には、まづその御時をこそは引かるめれ」といへば、
「それは、いかでかはさらでは侍らむ。その帝の出で御座しましたればこそ、この藤氏の殿ばら、今に栄え御座しませ。「さらざらましかば、この頃わづかにわれらも諸大夫ばかりになり出でて、ところどころの御前・雑役につられ歩きなまし」とこそ、入道殿は仰せられければ、源民部卿は、「さるかたちしたるまうちぎみだちの候はましかば、いかに見ぐるしからまし」とぞ、笑ひ申させ給ふなる。かかれば、公私、その御時のことをためしとせさせ給ふ、ことわりなり。御物の怪こはくて、いかがと思し召ししに、大嘗会の御禊にこそ、いとうるはしくて、わたらせ給ひにしか。「それは、人の目にあらはれて、九条殿なむ御後を抱き奉りて、御輿のうちに候はせ給ひける」とぞ、人申しし。げに現にても、いとただ人とは見えさせ給はざりしかば、まして御座しまさぬ後には、さやうに御守にても添ひまうさせ給ひつらむ」
「さらば、元方卿・桓算供奉をぞ、逐ひのけさせ給ふべきな」。
「それはまた、しかるべき前の世の御報にこそ御座しましけめ。さるは、御心いとうるはしくて、世の政かしこくせさせ給ひつべかりしかば、世間にいみじうあたらしきことにぞ申すめりし。
 さてまた、今は故九条殿の御子どもの数、この冷泉院・円融院の御母、貞観殿の尚侍、一条摂政、堀河殿、大入道殿、忠君の兵衛督と六人は、武蔵守従五位上経邦の女の腹に御座しまさふ。世の人「女子」といふことは、この御ことにや。おほかた、御腹ことなれど、男君たち五人は太政大臣、三人は摂政し給へり。