この大臣は、法興院の大臣の御五男、御母、従四位上摂津守右京大夫藤原中正朝臣の女なり。その朝臣は従二位中納言山蔭卿の七男なり。この道長のおとどは、今の入道殿下これに御座します。一条院・三条院の御舅、当代・東宮の御祖父にて御座します。この殿、宰相にはなり給はで、ただちに権中納言にならせ給ふ、御年二十三。その年、上東門院生れ給ふ。四月二十七日、従二位し給ふ、御年二十七。関白殿生れ給ふ年なり。長徳元年乙羊四月二十七日、左近大将かけさせ給ふ。
その年の祭の前より、世の中きはめてさわがしきに、またの年、いとどいみじくなりたちにしぞかし。まづは、大臣・公卿多く失せ給へりしに、まして、四位・五位のほどは、数やは知りし。
まづその年失せ給へる殿ばらの御数、閑院の大納言、三月二十八日、中関白殿、四月十日。これは世の疫に御座しまさず、ただ同じ折のさしあはせたりしことなり。小一条の左大将済時卿は四月二十三日、六条の左大臣殿・粟田の右大臣殿・桃園の中納言保光卿、この三人は五月八日、一度に失せ給ふ。山井の大納言殿、六月十一日ぞかし。またあらじ、あがりての世にも、かく大臣・公卿七八人、二三月のうちにかきはらひ給ふこと。希有なりしわざなり。それもただこの入道殿の御幸ひの、上をきはめ給ふにこそ侍るめれ。かの殿ばら、次第のままにひさしく保ち給はましかば、いとかくしもやは御座しまさまし。
まづ帥殿の御心もちゐのさまざましく御座しまさば、父大臣の御病のほど、天下執行の宣旨下り給へりしままに、おのづからさてもや御座しまさまし。それにまた、大臣失せ給ひにしかば、いかでか、みどりごの様なる殿の、世の政し給はむとて、粟田殿にわたりにしぞかし。さるべき御次第にて、それまたあるべきことなり。あさましく夢などのやうに、とりあへずならせ給ひにし、これはあるべきことかはな。この今の入道殿、その折、大納言中宮大夫と申して、御年いと若く、ゆく末待ちつけさせ給ふべき御齢のほどに、三十にて、五月十一日に、関白の宣旨承り給うて、栄えそめさせ給ひにしままに、また外ざまへも分かれずなりにしぞかし。いまいまも、さこそは侍るべかむめれ。
この殿は、北の方二所御座します。この宮宮の母上と申すは、土御門の左大臣源雅信のおとどの御女に御座します。雅信のおとどは、亭子の帝の御子、一品式部卿の宮敦実の親王の御子、左大臣時平のおとどの御女の腹に生れ給ひし御子なり。その雅信のおとどの御女を、今の入道殿下の北の政所と申すなり。その御腹に、女君四所・男君二所ぞ御座します。その御有様は、ただいまのことなれば、皆人見奉り給ふらめど、ことばつづけ申さむとなり。
第一の女君は、一条院の御時に、十二にて、参らせ給ひて、またの年、長保二年庚子二月二十五日、十三にて后にたち給ひて、中宮と申ししほどに、うちつづき男親王二人うみ奉り給へりしこそは、今の帝・東宮に御座しますめれ。二所の御母后、太皇太后宮と申して、天下第一の母にて御座します。
その御さしつぎの尚侍と申しし、三条院の東宮に御座しまししに、参らせ給うて、宮、位につかせ給ひにしかば、后にたたせ給ひて、中宮と申しき、御年十九。さてまたの年、長和二年癸丑七月二十六日に、女親王生れさせ給へるこそは、三四ばかりにて一品にならせ給ひて、今に御座しませ。この頃は、この御母宮を皇太后宮と申して、枇杷殿に御座します。一品の宮は、三宮に准じて、千戸の御封を得させ給へば、この宮に后二所御座しますがごとくなり。
また次の女君、これも尚侍にて、今の帝十一歳にて、寛仁二年戊午正月二日、御元服せさせ給ふ、その二月に参り給うて、同じき年の十月十六日に后にゐさせ給ふ。ただいまの中宮と申して、内に御座します。
また、次の女君、それも尚侍、十五に御座します、今の東宮十三にならせ給ふ年、参らせ給ひて、東宮の女御にて候はせ給ふ。入道せしめ給ひて後のことなれば、今の関白殿の御女と名づけ奉りてこそは参らせ給ひしか。今年は十九にならせ給ふ。妊じ給ひて、七八月にぞ当たらせ給へる。入道殿の御有様見奉るに、かならず男にてぞ御座しまさむ。この翁、さらによも申しあやまち侍らじ」と、扇を高くつかひつついひしこそ、をかしかりしか。
「女君たちの御有様かくのごとし。男君二所と申すは、今の関白左大臣頼通のおとどと聞えさせて、天下をわがままにまつりごちて御座します。御年二十六にてや内大臣・摂政にならせ給ひけむ。帝およすけさせ給ひにしかば、ただ関白にて御座します。二十余にて納言などになり給ふをぞ、いみじきことにいひしかど、今の世の御有様かく御座しますぞかし。御童名は鶴君なり。いま一所は、ただいまの内大臣にて、左大将かけて、教通のおとどと聞えさす。世の二の人にて御座しますめり。御童名、せや君ぞかし。
かかれば、この北の政所の御栄えきはめさせ給へり。
御女の御幸ひは、あるいは、帝・東宮の御母后にならせ給ひ、あるいは、わが御親一の人にて御座するには、御子生れさせ給はねど、かねて后にみなゐませ給ふめり。女の御幸ひは、后にこそきはめさせ給ふことなめれ。されどそれは、いと所狭きに御座します。いみじきとみのことなれど、おぼろけならねば、えうごかせ給はず。陣屋ゐぬれば、女房たやすく心にもまかせず。かように所狭げなり。
ただ人と申せど、帝・春宮の御祖母にて、准三宮の御位にて、年官、年爵給はらせ給ふ。唐の御車にて、いとたはやすく、御ありきなども、なかなか御身安らかにて、ゆかしく思し召しけることは、世の中の物見、なにの法会やなどある折は、御車にても、桟敷にても、かならず御覧ずめり。内・東宮・宮々と、あかれあかれよそほしくて御座しませど、いづかたにもわたり参らせ給ひてはさしならび御座します。
ただいま三后・東宮の女御・関白左大臣・内大臣の御母・帝・春宮はた申さず、おほよそ世の親にて御座します。入道殿と申すもさらなり、おほかたこの二所ながら、さるべき権者にこそ御座しますめれ。御なからひ四十年ばかりにやならせ給ひぬらむ。あはれにやむごとなき物にかしづき奉らせ給ふ、といへばこそおろかなれ。世の中には、いにしへ・ただいまの国王・大臣、皆藤氏にてこそ御座しますに、この北の政所ぞ、源氏にて御幸ひきはめさせ給ひにたる。一昨年の御賀の有様などこそ、皆人見聞き給ひしことなれど、なほかへすがへすもいみじく侍りし物かな。
また、高松殿の上と申すも、源氏にて御座します。延喜の皇子高明の親王を左大臣になし奉らせ給へりしに、思はざるほかのことによりて、帥にならせ給ひて、いといと心憂かりしことぞかし。その御女に御座します。それを、かの殿、筑紫に御座しましける年、この姫君まだいと幼く御座しましけるを、御舅の十五の宮と申したるも、同じ延喜の皇子に御座します、
女子も御座せざりければ、この君をとり奉りて、養ひかしづき奉りて、もち給へるに、西宮殿も、十五の宮もかくれさせ給ひにし後に、故女院の后に御座しましし折、この姫君を迎へ奉らせ給ひて、東三条殿の東の対に、帳を立てて、壁代をひき、わが御しつらひにいささかおとさせ給はず、しすゑきこえさせ給ひ、女房・侍・家司・下人まで別にあかちあてさせ給ひて、姫宮などの御座しまさせしごとくにかぎりなく、思ひかしづききこえさせ給ひしかば、御せうとの殿ばら、我も我もと、よしばみ申し給ひけれど、后かしこく制しまうさせ給ひて、今の入道殿をぞ許しきこえさせ給ひければ、通ひ奉らせ給ひしほどに、女君二所・男君四人御座しますぞかし。
女君と申すは、今の小一条院の女御。いま一所は故中務卿具平の親王と申す、村上の帝の七の親王に御座しましき、その御男君三位中将師房の君と申すを、
今の関白殿の上の御はらからなるが故に、関白殿、御子にし奉らせ給ふを、
入道殿婿どり奉らせ給へり。「あさはかに、心得ぬこと」とこそ、世の人申ししか。殿のうちの人も思したりしかど、入道殿思ひおきてさせ給ふやうありけむかしな。
男君は、大納言にて春宮大夫頼宗と聞ゆる。御童名、石君。いま一所、これに同じ、大納言中宮権大夫能信と聞ゆる。
いま一所、中納言長家。御童名、小若君。
いま一人は、馬頭にて、顕信とて御座しき。御童名、苔君なり。寛弘九年壬子正月十九日、入道し給ひて、この十余年は、仏のごとくして行はせ給ふ。思ひがけず、あはれなる御ことなり。みづからの菩提を申すべからず、殿の御ためにもまた、法師なる御子の御座しまさぬが口惜しく、こと欠けさせ給へる様なるに、「されば、やがて一度に僧正になし奉らむ」となむ仰せられけるとぞ承るを、いかが侍らむ。うるはしき法服、宮々よりも奉らせ給ひ、殿よりは麻の御衣奉るなるをば、あるまじきことに申させ給ふなるをぞ、いみじく侘びさせ給ひける。
出でさせ給ひけるには、緋の御衵のあまた候ひけるを、「これがあまた重ねて着たるなむうるさき。綿を一つに入れなして一つばかりを着たらばや。しかせよ」と仰せられければ、「これかれそそき侍らむもうるさきにことを厚くして参らせむ」と申しければ、「それはひさしくもなりなむ。ただとくと思ふぞ」と仰せられければ、思し召すやうこそはと思ひて、あまたを一つにとり入れて参らせたるを奉りてぞ、その夜は出でさせ給ひける。
されば、御乳母は、「かくて仰せられける物を、なにしにして参らせけむ」と、「例ならずあやしと思はざりけむ心のいたりのなさよ」と、泣きまどひけむこそ、いとことわりにあはれなれ。ことしもそれにさはらせ給はむやうに。かくと聞きつけ給ひては、やがて絶え入りて、なき人のやうにて御座しけるを、「かく聞かせ給はば、いとほしと思して、御心や乱れ給はむ」と、「今さらによしなし。これぞめでたきこと。仏にならせ給はば、我が御ためも、後の世のよく御座せむこそ、つひのこと」と、人々のいひければ、「われは仏にならせ給はむもうれしからず。わが身の後のたすけられ奉らむもおぼえず。ただいまのかなしさよりほかのことなし。殿の上も、御子どもあまた御座しませば、いとよし。ただわれ一人がことぞや」とぞ、伏しまろびまどひける。げにさることなりや。道心なからむ人は、後の世までも知るべきかはな。
高松殿の御夢にこそ、左の方の御ぐしを、なからより剃り落とさせ給ふと御覧じけるを、かくて後にこそ、これが見えけるなりけりと思ひさだめて、「ちがへさせ、祈などをもすべかりけることを」と仰せられける。
皮堂にて御ぐしおろさせ給ひて、やがてその夜、山へ登らせ給ひけるに、「鴨河渡りしほどのいみじうつめたくおぼえしなむ、少しあはれなりし。今は斯様にてあるべき身ぞかしと思ひながら」とこそ仰せられけれ。
今の右衛門督ぞ、とくより、この君をば、「出家の相こそ御座すれ」と宣ひて、中宮権大夫殿の上に御消息聞えさせ給ひけれど、「さる相ある人をばいかで」とて、後にこの大夫殿をばとり奉り給へるなり。正月に、内より出で給ひて、この右衛門督、「馬頭の、物見よりさし出でたりつるこそ、むげに出家の相近くなりにて見えつれ。いくつぞ」と宣ひければ、頭中将「十九にこそなり給ふらめ」と申し給ひければ、「さては、今年ぞし給はむ」とありけるに、かくと聞きてこそ、「さればよ」と宣ひけれ。相人ならねど、よき人は、物を見給ふなり。
入道殿は、「益なし。いたう嘆きてかなし。心乱れせられむも、この人のためにいとほし。法師子のなかりつるに、いかがはせむ。幼くてもなさむと思ひしかども、すまひしかばこそあれ」とて、ただ例の作法の法師の御やうにもてなしきこえ給ひき。受戒には、やがて殿登らせ給ひ、人々我も我もと、御供に参り給ひて、いとよそほしげなりき。威儀僧には、えもいはぬものども選らせ給ひき。御先に、有職・僧網どものやむごとなき候ふ。山の所司・殿の御随身ども、人払ひののしりて、戒壇にのぼらせ給ひけるほどこそ、入道殿はえ見奉らせ給はざりけれ。御みづからは、本意なくかたはらいたしと思したりけり。座主の、手輿に乗りて、白蓋ささせてのぼられけるこそ、あはれ天台座主、戒和尚の一や、とこそ見え給ひけれ。世継が隣に侍る者の、そのきにはに会ひて見奉りけるが、語り侍りしなり。
「春宮大夫・中宮権大夫殿などの、大納言にならせ給ひし折は、さりとも、御耳とまりてきかせ給ふらむ、とおぼえしかど、その大饗の折のことども、大納言の座敷き添へられしほどなど、語り申ししかど、いささか御けしき変らず、念誦うちして、「かうやうのこと、ただしばしのことなり」とうち宣はせしなむ、めでたく優におぼえし」とぞ、通任の君、宣ひける。
この殿の君達、男女あはせ奉りて十二人、数のままにて御座します。男も女も、御官位こそ心にまかせ給へらめ、御心ばへ・人柄どもさへ、いささかかたほにて、もどかれさせ給ふべきも御座しまさず、とりどりに有識にめでたく御座しまさふも、ただことごとならず、入道殿の御幸ひのいふかぎりなく御座しますなめり。先々の殿ばらの君達御座せしかども、皆かくしも思ふさまにやは御座せし。おのづから、男も女もよきあしきまじりてこそ御座しまさふめりしか。この北の政所の二人ながら源氏に御座しませば、末の世の源氏の栄え給ふべきと定め申すなり。かかれば、この二所の御有様、かくのごとし。
ただし、殿の御前は、三十より関白せさせ給ひて、一条院・三条院の御時、世をまつりごち、わが御ままにて御座しまししに、また当代の九歳にて位につかせ給ひにしかば、御年五十一にて摂政せさせ給ふ年、わが御身は太政大臣にならせ給ひて、摂政をば大臣に譲り奉らせ給ひて、御年五十四にならせ給ふに、寛仁三年己未
三月十八日の夜中ばかりより御胸を病ませ給ひて、わざとに御座しまさねど、いかが思し召しけむ、にはかに、二十一日、未の時ばかり、起き居させ給ひて、御冠し、掻練の御下襲に布袴をうるはしくさうずかせ給ひて、御手水召せば、何事にかと、関白殿を始め奉りて殿ばらも思し召す。寝殿の西の渡殿に出でさせ給ひて、南面拝せさせ給ひて、春日の明神にいとま申させ給ふなりけり。慶明僧都・定基律師して、御ぐしおろさせ給ふ。関白殿を始めとして、君達・殿ばらなど、いとあさましく思せど、思したちてにはかにせさせ給ふことなれば、誰も誰もあきれて、え制しまうさせ給はず。あさましとはおろかなり。院源法印、御戒師し給ふ。信恵僧都の袈裟・衣をぞ奉りける。にはかのことにてまうけさせ給はざりけるにや。御名は行観とぞ侍りし。
かくて後にぞ、内・東宮・宮々たちには、かくと聞えさせ給ひける。聞きつけさせ給へる宮たちの御心ども、あさましく思しさわぐとは、おろかなり。申の時ばかりに、小一条院わたらせ給ひ、御門の外にて、御車かきおろして、引き入れて、中門の外にておりさせ給ひてこそは御座しまししか。寄せてもおりさせ給はで、かしこまりまうさせ給ふほども、いともかたじけなくめでたき御有様なりかし。宮たちも、夜さりこそはわたらせ給ひしか。
中宮・皇后宮などは、一つ御車にてぞわたらせ給ひし。行啓の有様、にはかにて、例の作法も侍らざりける。同じき年九月二十七日奈良にて御受戒侍りき。かかる御有様につけても、いかにめでたき御有様にことどもの多く侍りしかば、皆人知り給へることどもなれば、こまかには申し侍らじ。
三月二十一日、御出家し給ひつれど、なほまた同じき五月八日、准三宮の位にならせ給ひて、年官・年爵得させ給ふ。帝・東宮の御祖父、三后・関白左大臣・内大臣・あまたの納言の御父にて御座します。世を保たせ給ふこと、かくて三十一年ばかりにやならせ給ひぬらむ。今年は満六十に御座しませば、督の殿の御産の後、御賀あるべしとぞ人申す。いかにまたさまざま御座しまさへて、めでたく侍らむずらむ。おほかたまた世になきことなり、大臣の御女三人、后にてさし並べ奉り給ふこと。
あさましう希有のことなり。唐には、昔三千人の后御座しけれど、それは筋をたづねずしてただかたちありなど聞ゆるを、隣の国まで選び召して、その中に楊貴妃ごときは、あまりときめきすぎて、かなしきことあり。王昭君は父の申すにたがひて胡の国の人となり、上陽人は楊貴妃にそばめられて、帝に見え奉らで、深き窓のうちにて、春のゆき秋の過ぐることをも知らずして、十六にて参りて、六十までありき。斯様なれば、三千人のかひなし。
わが国には、七の后こそ御座すべけれど、代々に四人ぞたち給ふ。
この入道殿下の御一門よりこそ、太皇太后宮・皇太后宮・中宮、三所出で御座しましたれば、誠に希有希有の御幸ひなり。皇后宮一人のみ、筋わかれ給へりといへども、それそら貞信公の御末に御座しませば、これをよそ人と思ひまうすべきことかは。しかれば、ただ世の中は、この殿の御光ならずといふことなきに、この春こそは失せ給ひにしかば、いとどただ三后のみ御座しますめり。
この殿、ことにふれてあそばせる詩・和歌など、居易・人麿・躬恒・貫之といふとも、え思ひよらざりけむとこそ、おぼえ侍れ。春日の行幸、先の一条院の御時より始まれるぞかしな。それにまた、当代幼く御座しませども、かならずあるべきことにて、始まりたる例になりにたれば、大宮御輿に添ひまうさせ給ひて御座します、めでたしなどはいふも世の常なり。すべらぎの御祖父にて、うち添ひつかうまつらせ給へる殿の御有様・御かたちなど少し世の常にも御座しまさましかば、あかぬことにや。そこらあつまりたる田舎世界の民百姓、これこそは、たしかに見奉りけめ、ただ転輪聖王などはかくやと、光るやうに御座しますに、仏見奉りたらむやうに、額に手を当てて拝みまどふさま、ことわりなり。大宮の、赤色の御扇さし隠して、御肩のほどなどは、少し見えさせ給ひけり。かばかりにならせ給ひぬる人は、つゆの透影もふたぎ、いかがとこそはもて隠し奉るに、ことかぎりあれば、今日はよそほしき御有様も、少しは人の見奉らむも、などかはともや思し召しけむ。殿も宮も、いふよしなく、御心ゆかせ給へりけること、おしはかられ侍れば、殿、大宮に、
そのかみや祈りおきけむ春日野のおなじ道にもたづねゆくかな
御返し、
曇りなき世の光にや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ
斯様に申しかはさせ給ふほどに、げにげにと聞えて、めでたく侍りしなかにも、大宮のあそばしたりし、
三笠山さしてぞ来つるいそのかみ古きみゆきのあとをたづねて
これこそ、翁らが心およばざるにや。あがりても、かばかりの秀歌え候はじ。その日にとりては、春日の明神もよませ給へりけるとおぼえ侍り。今日かかることどもの栄えあるべきにて、先の一条院の御時にも、大入道殿、行幸申し行はせ給ひけるにやとこそ、心得られ侍れな。
おほかた、幸ひ御座しまさむ人の、和歌の道おくれ給へらむは、ことの栄えなくや侍らまし。この殿は、折節ごとに、かならず斯様のことを仰せられて、ことをはやさせ給ふなり。ひととせの、北の政所の御賀に、よませ給へりしは、
ありなれし契りは絶えていまさらに心けがしに千代といふらむ
また、この一品の宮の生れ御座しましたりし御産養、大宮のせさせ給へりし夜の御歌は、聞き給へりや。それこそいと興あることを。ただ人は思ひよるべきにも侍らぬ和歌の体なり。
おと宮の産養をあね宮のし給ふ見るぞうれしかりけるとかや、承りし」とて、こころよく笑みたり。
「四条の大納言のかく何事もすぐれ、めでたく御座しますを、大入道殿「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべもあらぬこそ口惜しけれ」と申させ給ひければ、中関白殿・粟田殿などは、げにさもとや思すらむと、はづかしげなる御けしきにて、物も宣はぬに、この入道殿は、いと若く御座します御身にて、「影をば踏まで、面をや踏まぬ」とこそ仰せられけれ。まことにこそさ御座しますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見奉り給はぬよ。
さるべき人は、とうより御心魂のたけく、御守もこはきなめりとおぼえ侍るは。花山院の御時に、五月下つ闇に、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜、帝、さうざうしとや思し召しけむ、殿上に出でさせ御座しまして、遊び御座しましけるに、人々、物語申しなどし給うて、昔おそろしかりけることどもなどに申しなり給へるに、「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、けしきおほゆ。まして、物離れたる所などいかならむ。
さあらむ所に一人往なむや」と仰せられけるに、「えまからじ」とのみ申し給ひけるを、入道殿は、「いづくなりともまかりなむ」と申し給ひければ、さるところ御座します帝にて、「いと興あることなり。さらばいけ。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗篭、道長は大極殿へいけ」と仰せられければ、よその君達は、便なきことをも奏してけるかなと思ふ。
また、承らせ給へる殿ばらは、御けしきかはりて、益なしと思したるに、入道殿は、つゆさる御けしきもなくて、「私の従者をば具し候はじ。この陣の吉上まれ、滝口まれ、一人を、『昭慶門まで送れ』と仰せ言たべ。それよりうちには一人入り侍らむ」と申し給へば、「証なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱に置かせ給へる小刀まして立ち給ひぬ。いま二所も、苦む苦むおのおの御座さふじぬ。「子四つ」と奏して、かく仰せられ議するほどに、丑にもなりにけむ。「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ」と、それをさへ分たせ給へば、しか御座しましあへるに、中関白殿、陣まで念じて御座しましたるに、宴の松原のほどに、その物ともなき声どもの聞ゆるに、術なくて帰り給ふ。粟田殿は、露台の外まで、わななくわななく御座したるに、仁寿殿の東面の砌のほどに、軒とひとしき人のあるやうに見え給ひければ、物もおぼえで、「身の候はばこそ、仰せ言も承らめ」とて、おのおのたち帰り参り給へれば、御扇をたたきて笑はせ給ふに、入道殿はいとひさしく見えさせ給はぬを、いかがと思し召すほどにぞ、いとさりげなくことにもあらずげにて参らせ給へる。「いかにいかに」と問はせたまへば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、「こは何ぞ」と仰せらるれば、「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり」と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。こと殿たちの御けしきは、いかにもなほ直らで、この殿のかくて参り給へるを、帝より始め感じののしられ給へど、うらやましきにや、またいかなるにか、物もいはでぞ候ひ給ひける。なほ、うたがはしく思し召されければ、つとめて、「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ」と仰せ言ありければ、持ていきて押しつけて見たうびけるに、つゆたがはざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。
故女院の御修法して、飯室の権僧正の御座しましし伴僧にて、相人の候ひしを、女房どもの呼びて相ぜられけるついでに、「内大臣殿はいかが御座す」など問ふに、「いとかしこう御座します。天下とる相御座します。中宮大夫殿こそいみじう御座しませ」といふ。また、粟田殿を問ひ奉れば、「それもまた、いとかしこく御座します。大臣の相御座します」。
また、「あはれ中宮大夫殿こそいみじう御座しませ」といふ。
また、権大納言殿を問ひ奉れば、「それも、いとやむごとなく御座します。雷の相なむ御座する」と申しければ、「雷はいかなるぞ」と問ふに、「ひときはは、いと高く鳴れど、後とげのなきなり。されば、御末いかが御座しまさむと見えたり。中宮大夫殿こそ、かぎりなくきはなく御座しませ」と、こと人を問ひ奉るたびには、この入道殿をかならずひき添へ奉りて申す。「いかに御座すれば、かく毎度には聞え給ふぞ」といへば、「第一の相には、虎の子の深き山の峰を渡るがごとくなるを申したるに、いささかもたがはせ給はねばかく申し侍るなり。このたとひは、虎の子のけはしき山の峰を渡るがごとしと申すなり。御かたち・容体は、ただ毘沙門のいき本見奉らむやうに御座します。御相かくのごとしといへば、誰よりもすぐれ給へり」とこそ申しけれ。いみじかりける上手かな。あてたがはせ給へることやは御座しますめる。帥の大臣の大臣までかくすがやかになり給へりしを、「始めよし」とはいひけるなめり。
雷は落ちぬれど、またもあがる物を、星の落ちて石となるにぞたとふべきや。それこそ返りあがることなけれ。
折々につけたる御かたちなどは、げにながき思ひ出でとこそは人申すめれ。なかにも三条院の御時、賀茂行幸の日、雪ことのほかにいたう降りしかば、御単の袖をひき出でて、御扇を高く持たせ給へるに、いと白く降りかかりたれば、「あないみじ」とて、うち払はせ給へりし御もてなしは、いとめでたく御座しましし物かな。上の御衣は黒きに、御単衣は紅のはなやかなるあはひに、雪の色ももてはやされて、えもいはず御座しましし物かな。高名のなにがしといひし御馬、いみじかりし悪馬なり。あはれ、それを奉りしづめたりしはや。三条院も、その日のことをこそ思し召し出で御座しますなれ。御病のうちにも、「賀茂行幸の日の雪こそ、忘れがたけれ」と仰せられけむこそ、あはれに侍れ。
世間の光にて御座します殿の、一年ばかり、物をやすからず思し召したりしよ、いかに天道御覧じけむ。さりながらも、いささか逼気し、御心やは倒させ給へりし。おほやけざまの公事・作法ばかりにはあるべきほどにふるまひ、時たがふことなく勤めさせ給ひて、うちうちには、所も置ききこえさせ給はざりしぞかし。
帥殿の、南院にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせ給へれば、思ひがけずあやしと、中関白殿思し驚きて、いみじう饗応しまうさせ給うて、下藤に御座しませど、前にたて奉りて、まづ射させ奉らせ給ひけるに、帥殿、矢数いま二つ劣り給ひぬ。中関白殿、また御前に候ふ人々も、「いま二度延べさせ給へ」と申して、延べさせ給ひけるを、やすからず思しなりて、「さらば、延べさせ給へ」と仰せられて、また射させ給ふとて、仰せらるるやう、「道長が家より帝・后たち給ふべき物ならば、この矢あたれ」と仰せらるるに、同じ物を中心にはあたる物かは。次に、帥殿射給ふに、いみじう臆し給ひて、御手もわななく故にや、的のあたりにだに近くよらず、無辺世界を射給へるに、関白殿、色青くなりぬ。また、入道殿射給ふとて、「摂政・関白すべき物ならば、この矢あたれ」と仰せらるるに、始めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給ひつ。饗応し、もてはやしきこえさせ給ひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「なにか射る。な射そ、な射そ」と制し給ひて、ことさめにけり。
入道殿、矢もどして、やがて出でさせ給ひぬ。その折は左京大夫とぞ申しし。弓をいみじう射させ給ひしなり。また、いみじう好ませ給ひしなり。
今日に見ゆべきことならねど、人の御さまの、いひ出で給ふことのおもむきより、かたへは臆せられ給ふなむめり。
また、故女院の御石山詣に、この殿は御馬にて、帥殿は車にて参り給ふに、さはることありて、粟田口より帰り給ふとて、院の御車のもとに参り給ひて、案内申し給ふに、御車もとどめたれば、轅をおさへて立ち給へるに、入道殿は、御馬をおしかへして、帥殿の御項のもとに、いと近ううち寄せさせ給ひて、「とく仕うまつれ。日の暮れぬるに」と仰せられければ、あやしく思されて見返り給へれど、おどろきたる御けしきもなく、とみにも退かせ給はで、「日暮れぬ。とくとく」とそそのかせ給ふを、いみじうやすからず思せど、いかがはせさせ給はむ、やはら立ち退かせ給ひにけり。父大臣にも申し給ひければ、「大臣軽むる人のよき様なし」と宣はせける。
三月巳の日の祓に、やがて造遥し給ふとて、帥殿、河原にさるべき人々あまた具して出でさせ給へり。平張どもあまたうちわたしたる御座し所に、入道殿も出でさせ給へる、御車を近くやれば、「便なきこと。かくなせそ。やりのけよ」と仰せられけるを、なにがし丸といひし御車副の、「何事宣ふ殿にかあらむ。かくきこし給へれば、この殿は不運には御座するぞかし。わざはひや、わざはひや」とて、いたく御車牛をうちて、いま少し平張のもと近くこそ、つかうまつり寄せたりけれ。「辛うもこの男にいはれぬるかな」とぞ仰せられける。さて、その御車副をば、いみじうらうたくせさせ給ひ、御かへりみありしは。斯様のことにて、この殿たちの御中いとあしかりき。
女院は、入道殿をとりわき奉らせ給ひて、いみじう思ひまうさせ給へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給へりけり。帝、皇后宮をねんごろにときめかさせ給ふゆかりに、帥殿はあけくれ御前に候はせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、ことにふれて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意なきことに思し召しける、ことわりなりな。入道殿の世をしらせ給はむことを、帝いみじうしぶらせ給ひけり。皇后宮、父大臣御座しまさで、世の中をひきかはらせ給はむことを、いと心ぐるしう思し召して、粟田殿にも、とみにやは宣旨下させ給ひし。されど、女院の道理のままの御ことを思し召し、また帥殿をばよからず思ひきこえさせ給うければ、入道殿の御ことを、いみじうしぶらせ給ひけれど、「いかでかくは思し召し仰せらるるぞ。大臣越えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父大臣のあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしこそ侍れ。粟田の大臣にはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便なく、世の人もいひなし侍らむ」など、いみじう奏せさせ給ひければ、むつかしうや思し召しけむ、後にはわたらせ給はざりけり。されば、上の御局にのぼらせ給ひて、「こなたへ」とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。いとひさしく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあけて出でさせ給ひける、御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ」とこそ申させ給ひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御有様は、人の、ともかくも思しおかむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひまうさせ給はまし。そのなかにも、道理すぎてこそは報じ奉り仕うまつらせ給ひしか。御骨をさへこそはかけさせ給へりしか。
中関白殿・粟田殿うちつづき失せさせ給ひて、入道殿に世のうつりしほどは、さも胸つぶれて、きよきよとおぼえ侍りしわざかな。いとあがりての世は知り侍らず、翁物覚えての後は、かかること候はぬ物をや。今の世となりては、一の人の、貞信公・小野宮殿をはなち奉りて、十年と御座することの、近くは侍らねば、この入道殿もいかがと思ひまうし侍りしに、いとかかる運におされて、御兄たちはとりもあへずほろび給ひにしにこそ御座すめれ。それもまた、さるべくあるやうあることを、皆世はかかるなむめりとぞ人々思し召すとて、有様を少しまた申すべきなり。