世の中の帝、神代七代をばさるものにて、神武天皇より始め奉りて、三十七代にあたり給ふ孝徳天皇の御代よりこそは、さまざまの大臣定まり給へなれ。ただしこの御時、中臣鎌子の連と申して、内大臣になり始め給ふ。その大臣は常陸国にて生れ給へりければ、三十九代にあたり給へる帝、天智天皇と申す、その帝の御時こそこの鎌足のおとどの御姓、藤原とあらたまり給ひたる。されば世の中の藤氏の始めには内大臣鎌足のおとどをし奉る。その末々より多くの帝・后・大臣・公卿さまざまになり出で給へり。
ただし、この鎌足のおとどを、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめ給ひつ。その女御ただにもあらず、孕み給ひにければ、帝の思し召し宣ひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子とせよ。女ならば朕が子にせむ」と契らしめ給へりけるに、この御子、男にて生れ給へりければ、内大臣の御子とし給ふ。この大臣は、もとより男一人・女一人をぞ、持ち奉り給へりける。この御腹に、さしつづき女二人・男二人生れ給ひぬ。その姫君、天智天皇の皇子、大友皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝となり給ひて、天武天皇と申しける帝の女御にて、二所ながらさしつづき御座しけり。
大臣のもとの太郎君をば、中臣意美麿とて、宰相までなり給へり。天智天皇の御子の孕まれ給へりし、右大臣までなり給ひて、藤原不比等のおとどとて御座しけり。失せ給ひて後、贈太政大臣になり給へり。鎌足のおとどの三郎は宇合とぞ申しける。四郎は麿と申しき。この男君たち、皆宰相ばかりまでぞなり給へる。かくて鎌足のおとどは、天智天皇の御時、藤原の姓賜はり給ひし年ぞ、失せさせ給ひける。内大臣の位にて、二十五年ぞ御座しましける。太政大臣になり給はねど、藤氏の出で始めのやむごとなきによりて、失せさせ給へる後の御いみな、淡海公と申しけり」
この繁樹がいふやう、「大織冠をば、いかでか淡海公と申さむ。大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六にてなむかくれ御座しましける。ぬしののたぶことも、天の川をかき流すやうに侍れど、折々かかる僻事のまじりたる。されども、誰かまた、かうは語らむな。仏在世の浄名居士とおぼえ給ふ物かな」といへば、世継がいはく、
「昔、唐国に、孔子と申す物知り、宣ひけるやう侍り。
「智者は千のおもひはかり、かならず一つあやまちあり」とあれば、世継、年百歳に多くあまり、二百歳にたらぬほどにて、かくまでは問はず語り申すは、昔の人にも劣らざりけるにやあらむ、となむおぼゆる」といへば、繁樹、「しかしか。誠に申すべき方なくこそ興あり、おもしろくおぼえ侍れ」とて、かつは涙をおしのごひなむ感ずる、誠にいひてもあまりにぞおぼゆるや。
「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になり給へり。この不比等のおとどの御名より始め、なべてならず御座しましけり。「ならびひとしからず」とつけられ給へる名にてぞ、この文字は侍りける。この不比等のおとどの御男君たち二人ぞ御座しける。太郎は武智麿と聞えて、左大臣までなり給へり。二郎は房前と申して、宰相までなり給へり。この不比等のおとどの御女二人御座しけり。一所は、聖武天皇の御母后、光明皇后と申しける。いま一所の御女は、聖武天皇の女御にて、女親王をぞうみ奉り給へりける。女御子を、聖武天皇、女帝にすゑ奉り給ひてけり。この女帝をば、高野の女帝と申しけり。二度位につかせ給ひたりける。
さて、不比等のおとどの男子二人、また御弟二人とを、四家となづけて、皆門わかち給へりけり。その武智麿をば南家となづけ、二郎房前をば北家となづけ、御はらからの宇合の式部卿をば式家となづけ、その弟の麿をば京家となづけ給ひて、これを、藤氏の四家とはなづけられたるなりけり。この四家よりあまたのさまざまの国王・大臣・公卿多く出で給ひて栄え御座します。しかあれど、北家の末、今に枝ひろごり給へり。その御つづきを、また一筋に申すべきなり。絶えにたる方をば申さじ。人ならぬほどのものどもは、その御末にもや侍らむ。
この鎌足のおとどよりの次々、今の関白殿まで十三代にやならせ給ひぬらむ。その次第を聞し召せ。藤氏と申せば、ただ藤原をばさいふなりとぞ、人は思さるらむ。さはあれど、本末知ることは、いとありがたきことなり。
一、内大臣鎌足のおとど、藤氏の姓賜はり給ひての年の十月十六日に失せさせ給ひぬ、御年五十六。大臣の位にて二十五年。この姓の出でくるを聞きて、紀氏の人のいひける、「藤かかりぬる木は枯れぬる物なり。いまぞ紀氏は失せなむずる」とぞ宣ひけるに、誠にこそしか侍れ。この鎌足のおとどの病づき給へるに、昔この国に仏法ひろまらず、僧などたはやすく侍らずやありけむ、聖徳太子伝へ給ふといへども、この頃だに、生れたる児も法華経を読むと申せど、まだ読まぬも侍るぞかし、百済国よりわたりたりける尼して、維摩経供養じ給へりけるに、御心地ひとたびにおこたりて侍りければ、その経をいみじき物にし給ひけるままに、維摩会は侍るなり。
一、鎌足のおとどの二郎、左大臣正二位不比等、大臣の位にて十三年。贈太政大臣にならせ給へり。元明天皇・元正天皇の御時二代。
一、不比等のおとどの二郎、房前、宰相にて二十年。大炊天皇の御時、天平宝字四年庚子八月七日、贈太政大臣になり給ふ。元正天皇・聖武天皇二代。
一、房前のおとどの四男、真楯の大納言、称徳天皇の御時、天平神護二年三月十六日、失せ給ひぬ、御年五十二。贈太政大臣。公卿にて七年。
一、真楯の大納言の御二郎、右大臣従二位左近大将内麿のおとど、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。
贈従一位左大臣。桓武天皇・平城天皇二代に会ひ給へり。
一、内麿のおとどの御三郎、冬嗣のおとどは、左大臣までなり給へり。贈太政大臣。この殿より次、さまざまあかしたればこまかに申さじ。
鎌足の御代より栄えひろごり給へる、御末々やうやう失せ給ひて、この冬嗣のほどは無下に心ぼそくなり給へりし。その時は、源氏のみぞ、さまざま大臣・公卿にて御座せし。それに、この大臣なむ南円堂を建てて、丈六の不空羂索観音を据ゑ奉り給ふ。
さて、やがて不空羂索経一千巻供養じ給へり。今にその経ありつつ、藤氏の人々とりて守りにし会ひ給へり。その仏経の力にこそ侍るめれ、また栄えて、帝の御後見今に絶えず、末々せさせ給ふめるは。その供養の日ぞかし、こと姓の上達部あまた、日のうちに失せ給ひにければ、誠にや、人々申すめり。
一、冬嗣のおとどの御太郎、長良の中納言は、贈太政大臣。
一、長良のおとどの御三郎、基経のおとどは、太政大臣までなり給へり。
一、基経のおとどの御四郎、忠平のおとどは、太政大臣までなり給へり。
一、忠平のおとどの御二郎、師輔のおとどは、右大臣までなり給へり。
一、師輔のおとどの御三郎、兼家のおとど、太政大臣まで。
一、兼家のおとどの御五郎、道長のおとど、太政大臣まで。
一、道長のおとどの御太郎、ただいまの関白左大臣頼通のおとど、これに御座します。
この殿の御子の、今まで御座しまさざりつるこそ、いと不便に侍りつるを、この若君の生れ給ひつる、いとかしこきことなり。母は申さぬことなれど、これはいとやむごとなくさへ御座するこそ。故左兵衛督は、人柄こそ、いとしも思はれ給はざりしかど、もとの貴人に御座するに、また、かく世をひびかす御孫の出で御座しましたる、なき後にもいとよし。七夜のことは、入道殿せさせ給へるに、つかはしける歌、
年を経て待ちつる松の若枝にうれしくあへる春のみどりご
帝・東宮をはなち奉りては、これこそ孫の長とて、やがて御童名を長君とつけ奉らせ給ふ。この四家の君たち、昔も今もあまた御座しますなかに、道絶えずすぐれ給へるは、かくなり。
その鎌足のおとど生まれ給へるは、常陸国なれば、かしこに鹿島といふ所に、氏の御神を住ましめ奉り給ひて、その御代より今にいたるまで、あたらしき帝・后・大臣たち給ふ折は、幣の使かならずたつ。帝、奈良に御座しましし時に、鹿島遠しとて、大和国三笠山にふり奉りて、春日明神となづけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、公家、男・女使たてさせ給ひ、后の宮・氏の大臣・公卿、皆、この明神に仕うまつり給ひて、二月・十一月上の申の日、御祭にてなむ、さまざまの使たちののしる。帝、この京に遷らしめ給ひては、また近くふり奉りて、大原野と申す。
二月の初卯の日・霜月の初子の日と定めて、年に二度の御祭あり。また同じく公家の使たつ。藤氏の殿ばら、皆、この御神に御幣・十列奉り給ふ。なほし近くとて、またふり奉りて、吉田と申して御座しますめり。この吉田の明神は、山陰の中納言のふり奉り給へるぞかし。御祭の日、四月下の子・十一月下の申の日とを定めて、「わが御族に、帝・后の宮たち給ふ物ならば、公祭になさむ」と誓ひ奉り給へれば、一条院の御時より、公祭にはなりたるなり。
また、鎌足のおとどの御氏寺、大和国多武峯に造らしめ給ひて、そこに御骨を納め奉りて、今に三昧行ひ奉り給ふ。不比等のおとどは、山階寺を建立せしめ給へり。それにより、かの寺に藤氏を祈りまうすに、この寺ならびに多武峯・春日・大原野・吉田に、例にたがひ、あやしきこと出できぬれば、御寺の僧・禰宜等など公家に奏し申して、その時に、藤氏の長者殿占はしめ給ふに、御慎みあるべきは、年のあたり給ふ殿ばらたちの御もとに、御物忌を書きて、一の所より配らしめ給ふ。おほよそ、かの寺より始まりて、年に二三度、会を行はる。正月八日より十四日まで、八省にて、奈良方の僧を講師とて、御斎会行はしむ。公家より始め、藤氏の殿ばら、皆加供し給ふ。
また、三月十七日より始めて、薬師寺にて最勝会七日、また山階寺にて十月十日より維摩会七日。皆これらのたびに、勅使下向して衾つかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉り給ふ。南京の法師、三会講師しつれば、已講と名づけて、その次第をつくりて、律師、僧綱になる。かかれば、かの御寺、いかめしうやむごとなき所なり。いみじき非道のことも、山階寺にかかりぬれば、またともかくも、人物いはず、「山階道理」とつけて、おきつ。かかれば、藤氏の御有様たぐひなくめでたし。
同じことの様なれども、またつづきを申すべきなり。后の宮の御父・帝の御祖父となり給へるたぐひをこそは、あかし申さめ」とて、
「一、内大臣鎌足のおとどの御女二人、やがて皆天武天皇に奉り給へりけり。男・女親王たち御座しましけれど、帝・春宮たたせ給はざめり。
一、贈太政大臣不比等のおとどの御女二所、一人の御女は、文武天皇の御時の女御、親王生れ給へり。それを聖武天皇と申す。御母をば光明皇后と申しき。いま一人の御女は、やがて御甥の聖武天皇に奉りて、女親王うみ奉り給へるを、女帝にたて奉り給へるなり。高野の女帝と申す、これなり。四十六代にあたり給ふ。それおり給へるに、また帝一人を隔て奉りて、また四十八代にかへりゐ給へるなり。母后を贈皇后と申す。しかれば不比等のおとどの御女、二人ながら后にましますめれど、高野の女帝の御母后は、贈后と申したるにて、御座しまさぬ世に、后の宮にゐ給へると見えたり。かるが故に、不比等のおとどは、光明皇后、また贈后の父、聖武天皇ならびに高野の女帝の御祖父。或本にまた、「高野の女帝の母后、生き給へる世に后にたち給ひて、その御名を光明皇后と申す」とあり。聖武の御母も、御座します世に、后となり給ひて、贈后と見え給はず。
一、贈太政大臣冬嗣のおとどは、太皇太后順子の御父、文徳天皇の御祖父。
一、太政大臣良房のおとどは、皇太后宮明子の御父、清和天皇の御祖父。
一、贈太政大臣長良のおとどは、皇太后高子の御父、陽成院の御祖父。
一、贈太政大臣総継のおとどは、贈皇太后沢子の御父、光孝天皇の御祖父。
一、内大臣高藤のおとどは、皇太后胤子の御父、醍醐天皇の御祖父。
一、太政大臣基経のおとどは、皇后宮穏子の御父、朱雀・村上二代の御祖父。
一、右大臣師輔のおとどは、皇后安子の御父、冷泉院ならびに円融院の御祖父。
一、太政大臣伊尹のおとどは、贈皇后懐子の御父、花山院の御祖父。
一、太政大臣兼家のおとどは、皇太后宮詮子、また贈后超子の御父、一条院・三条院の御祖父。
一、太政大臣道長のおとどは、太皇太后宮彰子・皇太后宮妍子・中宮威子・東宮の御息所の御父、当代ならびに春宮の御祖父に御座します。ここらの御中に、后三人並べすゑて見奉らせ給ふことは、入道殿下よりほかに聞えさせ給はざんめり。関白左大臣・内大臣・大納言二人・中納言の御親にて御座します。さりや、聞し召しあつめよ。日本国には唯一無二に御座します。
まづは、造らしめ給へる御堂などの有様、鎌足のおとどの多武峯・不比等のおとどの山階寺・基経のおとどの極楽寺・忠平のおとどの法性寺・九条殿の楞厳院・天のみかどの造り給へる東大寺も、仏ばかりこそは大きに御座すめれど、なほこの無量寿院には並び給はず。まして、こと御寺御寺はいふべきならず。大安寺は、兜率天の一院を天竺の祇園精舎にうつし造り、天竺の祇園精舎を唐の西明寺にうつし造り、唐の西明寺の一院を、この国の帝は、大安寺にうつさしめ給へるなり。しかあれども、ただいまはなほこの無量寿院まさり給へり。南京のそこばくの多かる寺ども、なほあたり給ふなし。恒徳公の法住寺いと猛なれど、なほこの無量寿院すぐれ給へり。難波の天王寺など、聖徳太子の御心に入れ造り給へれど、なほこの無量寿院まさり給へり。奈良は七大寺・十五大寺など見くらぶるに、なほこの無量寿院いとめでたく、極楽浄土のこの世にあらはれけると見えたり。かるが故に、この無量寿院も、思ふに、思し召し願ずること侍りけむ。浄妙寺は、東三条の大臣の、大臣になり給ひて、御慶びに木幡に参り給へりし御供に、入道殿具し奉らせ給ひて御覧ずるに、多くの先祖の御骨御座するに、鐘の声聞き給はぬ、いと憂きことなり、わが身思ふさまになりたらば、三昧堂建てむと、御心のうちに思し召し企てたりける、とこそ承れ。
昔も、かかりけること多く侍りけるなかに、極楽寺・法性寺ぞいみじく侍るや。御年なんどもおとなびさせ給はぬにだにも思し召しよるらむほど、なべてならずおぼえ侍るに、いづれの御時とはたしかにえ聞き侍らず、ただ深草の御ほどにやなどぞ思ひやり侍る。芹河の行幸せしめ給ひけるに、昭宣公童殿上にて仕うまつらせ給へりけるに、帝、琴をあそばしける。この琴弾く人は、別の爪つくりて、指にさし入れてぞ、弾くことにて侍りし。さて持たせ給ひたりけるを、落し御座しまして、大事に思し召しけれど、またつくらせ給ふべきやうもなかりければ、さるべきにてぞ思し召しよりけむ、おとなしき人々にも仰せられずて、幼く御座します君にしも、「求めて参れ」と仰せられければ、御馬をうち返して御座しましけれど、いづくをはかりともいかでかは尋ねさせ給はむ。見つけて参らせざらむことのいといみじく思し召しければ、これ求め出でたらむ所には一伽藍を建てむと、願じ思して、求め給ひけるに、出できたる所ぞかし、極楽寺は。幼き御心に、いかでか思し召しよらせ給ひけむ。さるべきにて御爪も落ち、幼く御座します人にも仰せられけるにこそは侍りけめ。
さて、やむごとなくならせ給ひて、御堂建てさせに御座します御車に、貞信公はいと小さくて具し奉り給へりけるに、法性寺の前わたり給ふとて、「父こそ。こここそ、よき堂所なむめれ。ここに建てさせ給へかし」と聞えさせ給ひけるに、いかに見てかくいふらむと思して、さし出でて御覧ずれば、誠にいとよく見えければ、幼き目にいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと、思し召して、「げにいとよき所なめり。汝が堂を建てよ。われはしかじかのことのありしかば、そこに建てむずるぞ」と申させ給ひける。さて法性寺は建てさせ給ひしなり」。
「また、九条殿の飯室のことなどはいかにぞ。横川の大僧正、御房にのぼらせ給ひし御供には、繁樹参りて侍りき」
「斯様のことども聞き見給ふれど、なほ、この入道殿、世にすぐれ抜け出でさせ給へり。天地にうけられさせ給へるは、この殿こそは御座しませ。何事も行はせ給ふ折に、いみじき大風吹き、長雨降れども、まづ二三日かねて、空晴れ、土乾くめり。かかれば、あるいは聖徳太子の生れ給へると申し、あるいは弘法大師の仏法興隆のために生れ給へるとも申すめり。げにそれは、翁らがさがな目にも、ただ人とは見えさせ給はざめり。なほ権者にこそ御座しますべかめれとなむ、仰ぎ見奉る。
かかれば、この御世の楽しきことかぎりなし。そのゆゑは、昔は、殿ばら・宮ばらの馬飼・牛飼、なにの御霊会・祭の料とて、銭・紙・米など乞ひののしりて、野山の草をだにやは刈らせし。仕丁・おものもち出できて、人の物取り奪ふこと絶えにたり。また、里の刀禰・村の行事出できて、火祭やなにやと煩はしく責めしこと、今は聞えず。かばかり安穏泰平なる時には会ひなむやと思ふは。翁らがいやしき宿りも、帯・紐を解き、門をだに鎖さで、安らかに偃したれば、年も若え、命も延びたるぞかし。まづは、北野・賀茂河原に作りたる、まめ・ささげ・うり・なすびといふ物、この中頃は、さらに術なかりし物をや。この年頃は、いとこそたのしけれ。人の取らぬをばさるものにて、馬・牛だにぞ食まぬ。されば、ただまかせ捨てつつ置きたるぞかし。かくたのしき弥勒の世にこそ会ひて侍れや」といふめれば、いま一人の翁、
「ただいまは、この御堂の夫を頻に召すことこそは、人は堪へがたげに申すめれ。それはさは聞き給はぬか」
といふめれば、世継、
「しかしか、そのことぞある。二三日まぜに召すぞかし。されどそれ、参るにあしからず。ゆゑは、極楽浄土のあらたにあらはれ出で給ふべきために召すなり、と思ひ侍れば、いかで、力堪へば、参りて仕うまつらむ。ゆく末に、この御堂の草木となりにしかなとこそ思ひ侍れ。されば、物の心知りたらむ人は、望みても参るべきなり。されば、翁ら、またあらじ、一度欠かず奉り侍るなり。さて参りたれば、あしきことやはある。飯・酒しげく賜び、持ちて参る果物をさへ恵み賜び、つねに仕うまつるものは、衣裳をさへこそ宛て行はしめ給へ。されば、参る下人も、いみじういそがしがりてぞ、すすみつどふめる」といへば、
「しか、それさることに侍り。ただし翁らが思ひ得て侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳破れ、むつかしき目見侍らず。また、飯・酒乏しき目見侍らず。もしこのことどもの術なからむ時は、紙三枚をぞ求むべき。ゆゑは、入道殿下の御前に申文を奉るべきなり。その文に作るべきやうは、「翁、故太政大臣貞信公殿下の御時の小舎人童なり。それ多くの年積りて、術なくなりて侍り。閤下の君、末の家の子に御座しませば、同じ君と頼み仰ぎ奉る。物少し恵み賜はらむ」と申さむには、少々の物は賜ばじやはと思へば、それは案の物にて、倉に置きたるごとくになむ思ひ侍る」といへば、世継、「それはげにさることなり。家貧しくならむ折は御寺に申文を奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうち語らひ侍る」と、同じ心にいひかはす。
世継、「さてもさても、うれしう対面したるかな。年頃の袋の口あけ、綻びを裁ち侍りぬること。さても、このののしる無量寿院には、いくたび参りて拝み奉り給ひつ」といへば、
「おのれは大御堂の供養の年の会の日は、人いみじう払ふべかなりと聞きしかば、試楽といふこと、三日かねてせしめ給ひしになむ、参りて侍りし」といへば、世継、「おのれば、たびたび参り侍り。供養の日の有様のめでたさは、さらにもあらずや。またの日、今日は御仏など近うて拝み奉らむ、物ども取りおかれぬ先にと思ひて、参りて侍りしに、宮たちの諸堂拝み奉らせ給ひし、見まうし侍りしこそ、かかることにあはむとて、今まで生きたるなりけりとおぼえ侍りしか。物覚えて後、さることをこそまだ見侍らね。御輦車に四所奉りたりしぞかし。口に大宮・皇太后宮、御袖ばかりをいささかさし出ださせ給ひて侍りしに、枇杷殿の宮の御ぐしの、地にいと長く引かれさせ給ひて、出でさせ給へりしは、いとめづらかなりしことかな。しりの方には、中宮・督の殿奉りて、ただ御身ばかり御車に御座しますやうにて、御衣どもは皆ながら出でて、それも地までこそ引かれ侍りしか。一品の宮も中に奉りたりけるにや、御衣どもは、なにがしぬしの持ちたうび、御車のしりにぞ候はれし。単の御衣ばかりを奉りて御座しましけるなめり。御車には、まうちぎみたち引かれて、しりには関白殿を始め奉り、殿ばら、さらぬ上達部・殿上人、御直衣にて歩みつづかせ給へりし、いで、あないみじや。
中宮権大夫殿のみぞ、堅固の御物忌にて参らせ給はざりし。さていみじく口惜しがらせ給ひける。中宮の御装束は、権大夫殿せさせ給へりし、いと清らにてこそ見え侍りしか。
「供養の日、啓すべきことありて、御座します所に参りて、五所居並ばせ給へりしを見奉りしかば、中宮の御衣の優に見えしはわがしたればにや」とこそ、大夫殿仰せられけれ。かく口ばかりさかしだち侍れど、下臈のつたなきことは、いづれの御衣も、ほど経ぬれば、色どものつぶと忘れ侍りにけるよ。ことにめでたくせさせ給へりければにや、下は紅薄物の御単衣重にや、御表着よくも覚え侍らず。萩の織物の三重襲の御唐衣に、秋の野を縫物にし、絵にもかかれたるにやとぞ、目もとどろきて見給へし。
こと宮々のも、殿ばらの調じて奉らせ給へりけるとぞ、人申しし。大宮は、二重織物折り重ねられて侍りし。皇太后宮は、そうじて唐装束。督の殿のは、殿こそせさせ給へりしか。こと御方々のも、絵かきなどせられたり、と聞かせ給て、にはかに薄押しなどせられたりければ、入道殿、御覧じて、「よき呪師の装束かな」とて、笑ひまうさせ給ひけり。
殿は、まづ御堂御堂あけつつ待ちまうさせ給ふ。南大門のほどにて見まししだに、笑ましくおぼえ侍りしに、御堂の渡殿の物のはさまより、一品の宮の弁の乳母、いま一人は、それも一品の宮の大輔の乳母・中将の乳母とかや、三人とぞ承りし、御車よりおりさせ給ひて、ゐざりつづかせ給へるを見奉りたるぞかし。
おそろしさにわななかれしかど、今日、さばかりのことはありなむやと思ひて、見参らするに、などてかはとは申しながら、いづれと聞えさすべきにもなく、とりどりにめでたく御座しまさふ。大宮、御ぐし御衣の裾にあまらせ給へり。中宮は、たけに少しあまらせ給へり。皇太后宮は、御衣に一尺ばかりあまらせ給へる御裾、扇のやうにぞ。督の殿、御たけに七八寸あまらせ給へり。御扇少しのけてさし隠させ給ひける。一品の宮は、殿の御前、「なにか居させ給ふ。立たせ給へ」とて、長押おりのぼらせ給ふ御手をとらへつつ、助けまうさせ給ふ。あまりなることは、目ももどろく心地なむし給ひける。あらはならずひきふたぎなど、つくろはせ給ひけるほどに、御覧じつけられたる物かは。「あないみじ。宮仕へに宿世の尽くる日なりけり」と、生ける心地もせで、三人ながら候ひ給ひけるほどに、「宮たち見奉りつるか。いかが御座しましつる。この老法師の女たちには、けしうはあらず御座しまさふな。なあなづられそよ」と、うち笑みて仰せられかけて、いたうもふたがせ給はで御座しましたりしなむ、生き出でたる心地して、うれしなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば、顔はそこら化粧じたりつれど、草の葉の色のやうにて、また赤くなりなど、さまざま汗水になりて見かはしたり。「さらぬ人だに、あざれたるもの覗きは、いと便なきことにするを、せめてめでたう思し召しければ、御よろこびに堪へで、さはれと思し召しつるにこそと思ひなすも、心驕りなむする」と、宣ひいまさうじける。
斯様のことどもを見給ふるままには、いとどもこの世の栄花の御栄えのみおぼえて、染着の心のいとどますますにおこりつつ、道心つくべくも侍らぬに、河内国そこそこに住むなにがしの聖人は、庵より出づることもせられねど、後世の責めを思へばとて、のぼり参られたりけるに、関白殿参らせ給ひて、雑人どもを払ひののしるに、これこそは一の人に御座すめれと見奉るに、入道殿の御前に居させ給へば、なほまさらせ給ふなりけりと見奉るほどに、また行幸なりて、乱声し、待ちうけ奉らせ給ふさま、御輿の入らせ給ふほどなど、見奉りつる殿たちの、かしこまりまうさせ給へば、なほ国王こそ日本第一のことなりけれと思ふに、おり御座しまして、阿弥陀堂の中尊の御前につい居させ給ひて、拝みまうさせ給ひしに、「なほなほ仏こそ上なく御座しましけれと、この会の庭にかしこう結縁しまうして、道心なむいとど熟し侍りぬる」とこそ申され侍りしか。かたはらに居られたりしなりや、まこと、忘れ侍りにけり。
世の中の人の申すやう、「大宮の入道せしめ給ひて、太上天皇の御位にならせ給ひて、女院となむ申すべき。この御寺に戒壇たてられて、御受戒あるべかなれば、世の中の尼ども参りて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継が女ども、かかることを伝へ聞きて、申すやう、「おのれを、その折にだに、白髪の裾そぎてむとなむ。なにか制する」と語らひ侍れば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後には、若からむ女のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひ侍れば、「わが姪なる女一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情なきこともぞある」と申せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひ侍る。やうやう裳・袈裟などのまうけに、よき絹一二疋求めまうけ侍る」
などいひて、さすがにいかにぞや、物あはれげなるけしきの出できたるは、女どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍りし。
「さて、今年こそ天変頻にし、世の妖言などよからず聞え侍るめれ。督の殿のかく懐妊せしめ給ふ、院の女御殿の常の御悩のなかにも、今年となりては、ひまなく御座しますなるなどこそ、おそろしう承れ。いでや、かうやうのことをうちつづけ申せば、昔のことこそただいまのやうにおぼえ侍れ」
見かはして、繁樹がいふやう、
「いであはれ、」かくさまざまにめでたきことども、あはれにもそこら多く見聞き侍れど、なほ、わが宝の君に後れ奉りたりしやうに、物のかなしく思う給へらるる折こそ侍らね。八月十日あまりのことに候ひしかば、折さへこそあはれに、「時しもあれ」とおぼえ侍りし物かな」とて、鼻たびたびかみて、えもいひやらず、いみじと思ひたるさま、誠にその折もかくこそと見えたり。
「一日片時生きて世にめぐらふべき心地もし侍らざりしかど、かくまで候ふは、いよいよひろごり栄え御座しますを見奉り、よろこびまうさせむとに侍めり。さて、またの年五月二十四日こそは、冷泉院は誕生せしめ給へりしか。それにつけていとこそ口惜しく、折のうれしさは、はかりも御座しまさざりしか」
などいへば、世継も、
「しか、しか」とこころよく思へるさまおろかならず。
「朱雀院・村上などのうちつづき生れ御座しまししは、またいかが」などいふほど、あまりに恐ろしくぞ。
また、「世継が思ふことこそ侍れ。便なきことなれど、明日とも知らぬ身にて侍れば、ただ申してむ。この一品の宮の御有様のゆかしくおぼえさせ給ふにこそ、また命惜しく侍れ。そのゆゑは、生れ御座しまさむとて、いとかしこき夢想見給へしなり。さおぼえ侍りしことは、故女院・この大宮など孕まれさせ給はむとて見えし、ただ同じさまなる夢に侍りしなり。それにて、よろづおしはかられさせ給ふ御有様なり。皇太后宮にいかで啓せしめむと思ひ侍れど、その宮の辺の人に、え会ひ侍らぬが口惜しさに、ここら集り給へる中に、もし御座しましやすらむと思う給へて、かつはかく申し侍るぞ。ゆく末にも、よくいひける物かなと、思しあはすることも侍りなむ」といひし折こそ、
「ここにあり」とて、さし出でまほしかりしか。