次の帝、当代。一条院の第二の皇子なり。御母、今の入道殿下の第一の御女なり。皇太后宮彰子と申す。ただ今、たれかはおぼつかなく思し思ふ人の侍らむ。されどまづすべらぎの御ことを申すさまにたがへ侍らぬなり。寛弘五年戊申九月十一日、土御門殿にて生まれさせ給ふ。同じ八年六月十三日、春宮にたたせ給ひき。御年四歳。長和五年正月二十九日、位につかせ給ひき。御年九歳。寛仁二年正月三日、御元服。御年十一。位につかせ給て十年にやならせ給ふらむ。今年、万寿二年乙丑とこそは申すめれ。同じ帝王と申せども、御後見多く頼もしく御座します。御祖父にてただ今の入道殿下、出家せさせ給へれど、世の親、一切衆生を子のごとくはぐくみ思し召す。第一の御舅、ただ今の関白左大臣、一天下をまつりごちて御座します。次の御舅、内大臣・左大将にて御座します。次々の御舅と申すは、大納言春宮の大夫、中宮権大夫、中納言など、さまざまにて御座します。斯様に御座しませば、御後見多く御座します。昔も今も、帝かしこしと申せど、臣下のあまたして傾け奉る時は、傾き給ふ物なり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにて御座しませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩の折、仰せられけるは、「一の親王をなむ春宮とすべけれども、後見申すべき人のなきにより、思ひかけず。されば二宮をばたて奉るなり」と仰せられけるぞ、この当代の御ことよ。げにさることぞかし』
『帝王の御次第は申さでもありぬべけれど、入道殿下の御栄花もなにによりひらけ給ふぞと思へば、まづ帝・后の御有様を申すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木の実をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言へば、大犬丸をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様をだに鏡をかけ給へるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇に向ひたるに、朝日のうららかにさし出でたるにあへらむ心地もするかな。また、翁が家の女どものもとなる櫛笥鏡の、影見えがたく、とぐわきも知らず、うち挟めて置きたるにならひて、あかく磨ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似給へりや。いで興ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日延びぬる心地し侍り』と、いたく遊戯するを、見聞く人々、をこがましくをかしけれども、言ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、物も言はで、皆聞きゐたり。
大犬丸をとこ、『いで、聞き給ふや。歌一首つくりて侍り』と言ふめれば、世継、
『いと感あることなり』とて、
世継『承らむ』と言へば、繁樹、いとやさしげにいひ出づ。
『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり』と言ふめれば、世継いたく感じて、あまた度誦して、うめきて、返し、
『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも
今様の葵八花がたの鏡、螺鈿の筥に入れたるに向ひたる心地し給ふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気つきて、をかしく、誠にめづらかになむ。
『よしなきことよりは、まめやかなることを申しはてむ。よくよく、たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法は、菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし』と言へば、僧俗、
『げに説経・説法多く承れど、かく珍しきこと宣ふ人は、さらに御座せぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり。
『世継はいとおそろしき翁に侍り。真実の心御座せむ人は、などか恥づかしと思さざらむ。世の中を見知り、うかべたてて持ちて侍る翁なり。目にも見、耳にも聞き集めて侍るよろづのことの中に、ただ今の入道殿下の御有様、古を聞き今を見侍るに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなく御座します。たとへば一乗の法のごとし。御有様のかへすがへすもめでたきなり。世の中の太政大臣・摂政・関白と申せど、始終めでたきことは、え御座しまさぬことなり。法文・聖教の中にもたとへるなるは、「魚の子多かれど、誠の魚となることかたし。菴羅といふ植木あれど、木の実を結ぶことかたし」とこそは説き給へなれ。天下の大臣・公卿の御中に、この宝の君のみこそ、世にめづらかに御座すめれ。今ゆく末も、たれの人かかばかりは御座せむ。いとありがたくこそ侍れや。たれも心をとなへて聞こし召せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞き残し侍らむ。この世継が申すことどもはしも、知り給はぬ人々多く御座すらむとなむ思ひ侍る』と言ふめれば、
人々『すべてすべて申すべきにも侍らず』とて聞きあへり。
『世始まりて後、大臣皆御座しけり。されど、左大臣・右大臣・内大臣・太政大臣と申す位、天下になりあつまり給へる、かぞへて皆覚え侍り。世始まりて後今にいたるまで、左大臣三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣はいにしへの帝の御代に、たはやすくおかせ給はざりけり。あるいは帝の御祖父、あるいは御舅ぞなり給ひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見し給ふ大臣・納言数多く御座す。失せ給ひて後、贈太政大臣などになり給へるたぐひ、あまた御座すめり。さやうのたぐひ七人ばかりや御座すらむ。わざとの太政大臣はなりがたく、少なくぞ御座する。神武天皇より三十七代にあたり給ふ孝得天皇と申す帝の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なり始め給へらむ。左大臣には阿倍倉橋麿、右大臣には蘇我山田石川麿、これは、元明天皇の御祖父なり。石川麿の大臣、孝徳天皇位につき給ての元年乙巳、大臣になり、五年己酉、東宮のために殺され給へりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子の連なり。年号いまだあらざれば、月日申しにくし。また、三十九代にあたり給ふ帝、天智天皇こそは、始めて太政大臣をばなし給けれ。それは、やがてわが御弟の皇子に御座します大友皇子なり。正月に太政大臣になり。同じ年十二月二十五日に位につかせ給ふ。天武天皇と申しき。世をしらせ給ふこと十五年。神武天皇より四十一代にあたり給ふ持統天皇、また、太政大臣に高市皇子をなし給ふ。天武天皇の皇子なり。この二人の太政大臣はやがて帝となり給ふ、高市皇子は大臣ながら失せ給ひにき。その後、太政大臣いとひさしく絶え給へり。ただし、職員令に、「太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくば、ただにおかるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位には侍らぬにや。四十二代にあたり給ふ文武天皇の御時に、年号定りたり。大宝元年といふ。文徳天皇の末の年、斎衡四年丁丑二月十九日、帝の御舅、左大臣従一位藤原良房のおとど、太政大臣になり給ふ。御年五十四。このおとどこそは、始めて摂政もし給へれ。やがてこの殿よりして、今の閑院の大臣まで、太政大臣十一人つづき給へり。ただし、これよりさきの大友皇子・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣なり。太政大臣になり給ひぬる人は、失せ給ひて後、かならず諡号と申す物あり。しかれども、大友皇子やがて帝になり給ふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせ給へる太政大臣、二所は出家し給へれば、諡号御座せず。この十一人の太政大臣たちの御次第・有様。始終申し侍らむと思ふなり。流れを汲みて、源を尋ねてこそは、よく侍るべきを、大織冠より始め奉りて申すべけれど、それはあまりあがりて、この聞かせ給はむ人々も、あなづりごとには侍れど、なにごととも思さざらむ物から、こと多くて講師御座しなば、こと醒め侍りなば、口惜し。されば、帝王の御ことも、文徳の御時より申して侍れば、その帝の御祖父の鎌足のおとどより第六にあたり給ふ、世の人は、ふぢさしとこそ申すめれ、その冬嗣の大臣より申し侍らむ。その中に、思ふに、ただ今の入道殿、世にすぐれさせ給へり。