このおとどは、左大臣冬嗣の二郎なり。天安元年二月十九日、太政大臣になり給ふ。同年四月十九日、従一位、御年五十四。水尾の帝は御孫に御座しませば、即位の年、摂政の詔あり、年官・年爵賜はり給ふ。貞観八年に関白にうつり給ふ。年六十三。失せ給ひて後、御諡号忠仁公と申す。また、白川の大臣・染殿の大臣とも申し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳天皇の御舅、太皇太后宮明子の御父、清和天皇の祖父にて、太政大臣・准三宮の位にのぼらせ給ふ。年官・年爵の宣旨下り、摂政・関白などし給ひて、十五年こそは御座しましたれ。おほかた公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞ御座する。この殿ぞ、藤氏の始めて太政大臣・摂政し給ふ。めでたき御有様なり。
和歌もあそばしけるにこそ。古今にも、あまた侍るめるは。「前のおほいまうち君」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推しはからるるを、御女の染殿の后へるにこそ。
年経ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし
后を、花にたとへ申させ給へるにこそ。
かくれ給ひて、白川にをさめ奉る日、素性ぎみのよみ給へりしは、
血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ
皆人知ろしめしたらめど、物を申しはやりぬれば、さぞ侍る。かくいみじき幸ひ人の、子の御座しまさぬこそ口惜しけれ。御兄の長良の中納言、ことのほかに越えられ給ひけむ折、いかばかり辛う思され、また世の人もことのほかに申しけめども、その御末こそ、今に栄え御座しますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさり給ひける物を。