次の帝、亭子の帝と申しき。これ、小松の天皇の御第三の皇子。御母、皇太后宮班子女王と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣仲野の親王の御女なり。この帝、貞観九年丁亥五月五日、生まれさせ給ふ。元慶八年四月十三日、源氏になり給ふ。御年十八。
王侍従など聞こえて、殿上人にて御座しましける時、殿上の御椅子の前にて、業平の中将と相撲とらせ給ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄折れにけり。その折目今に侍るなり。
仁和三年丁末八月二十六日に春宮にたたせ給ひて、やがて同じ日に位につかせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふこと十年。寛平元年己酉十一月二十一日己酉の日、賀茂の臨時祭始まること、この御時よりなり。使には右近中将時平なり。昌泰元年戊午四月十日、御出家せさせ給ふ。
この帝、いまだ位につかせ給はざりける時、十一月二十余日のほどに、賀茂の御社の辺に、鷹つかひ、遊びありきけるに、賀茂の明神託宣し給ひけるやう、「この辺に侍る翁どもなり。春は祭多く侍り。冬のいみじくつれづれなるに、祭賜はらむ」と申し給へば、その時に賀茂の明神の仰せらるるとおぼえさせ給ひて、「おのれは力および候はず。おほやけに申させ給ふべきことにこそ候ふなれ」と申させ給へば、「力およばせ給ひぬべきなればこそ申せ。いたく軽々なるふるまひなさせ給ひそ。さ申すやうあり。近くなり侍り」とて、かい消つやうに失せ給ひぬ。いかなることにかと心得ず思し召すほどに、かく位につかせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して、「祭せさせ給へ」と申させ給ふ日、酉の日にて侍りければ、やがて霜月のはての酉の日、臨時の祭は侍るぞかし。東遊の歌は、敏之の朝臣のよみけるぞかし。
ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ代経とも色は変はらじ
これは古今に入りて侍り。人皆知らせ給へることなれども、いみじくよみ給へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給へる御末、帝と申すともいとかくやは御座します。
位につかせ給ひて二年といふに始まれり。使、右近中将時平の朝臣こそはし給ひけれ。
寛平九年七月五日、おりさせ給ふ。昌泰二年己末十月十四日、出家せさせ給ふ。御名、金剛覚と申しき。承平元年七月十九日、失せさせ給ひぬ。御年六十五。
肥前掾橘良利、殿上に候ひける、入道して、修行の御供にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野にても、日根といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。
この帝の、ただ人になり給ふほどなどおぼつかなし。よくも覚え侍らず。御母、洞院の后と申す。この帝の、源氏にならせ給ふこと、よく知らぬにや、「王侍従」とこそ申しけれ。陽成院の御時、殿上人にて、神社行幸には舞人などせさせ給ひたり。位につかせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代は家人にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせ給へる帝も、ありがたきことぞかし。