次の帝、花山院天皇と申しき。冷泉院の第一の皇子なり。御母、贈皇后宮懐子と申す。太政大臣伊尹のおとどの第一の御女なり。この帝、安和元年戊辰十月二十六日丙子、母方の御祖父の一条の家にて生まれさせ給ふとあるは、世尊寺のことにや。その日は、冷泉院の御時の大嘗会の御禊あり。同じ二年八月十三日、春宮にたち給ふ。御年二歳。天元五年二月十九日、御元服。御年十五。永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせ給はで、みそかに花山寺に御座しまして、御出家入道せさせ給へりしこそ。御年十九。世を保たせ給ふこと二年。その後二十二年御座しましき。
あはれなることは、おり御座しましける夜は、藤壷の上の御局の子戸より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣わたり給ひぬるには」と、粟田殿のさわがし申し給ひけるは、まだ、帝出でさせ御座しまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたし奉り給ひてければ、かへり入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身を放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入り御座しましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせ御座しましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ」と、そら泣きし給ひけるは。
さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前をわたらせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせ給ふと見ゆるは。
天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且、式神一人内裏に参れ」と申しければ、目には見えぬ物の、戸をおしあけて、御後をや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせ御座しますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
花山寺に御座しまし着きて、御髪おろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならず参り侍らむ」と申し給ひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にて候はむ」と契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやし給ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出で参りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉る」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。